甲府「くさ笛」南アルプスに思い出せない名物女将
もうね、40歳になってからというもの〝人の名前が思い出せない〟とういうのが著しい。最大の原因は老化なのだが、連日連夜からなる慢性的な宿酔も要因のひとつなのでしょう。普段はそれでもいいのだが(本当はよくない)、会話中に人名が出てこないと特にスッキリしなくて困る。
「あ~、あの人、ほら……ねっ? わかるでしょ?」
こんなこと、酒場では日常酒飯事で──
『甲府駅』
何度か訪れたことはあるが、南アルプスの山々を望む雄大な景観は、港町育ちの私はいつ見ても息を呑む。今回も訪れた理由はもちろん酒場なのだが、酒場へ行く前にちょっと寄ってみたい場所があった。
『新天街』
甲府駅から15分ほど歩くと、錆び看板が口を開ける廃墟街が現れた。ここはかつての赤線だったらしいのだが、廃墟好きの私はこんな風景が大好きだ。
アーケードの屋根は落ち、通りに並ぶ店舗のトタンは真っ茶色に錆て、ちょっと触れると朽ち果てそうで。中には少し綺麗な看板もあるが、果たして営業しているのだろうか……。
廃墟で一番好きなのは〝想像〟だ。おそらく私が生まれるずっと前には、相当賑わっていたのだろうと想像してみる。
──凛とした冷たい山風が抜ける横丁には、いくつも酒場が並んでいる。そこからモクモクと料理の湯気が立ち、その香りと賑わいにつられ、何人もの旅人が暖簾を割る。
〝新天街〟という華やかな名前とは好対照な現在を、暫し歩き、想い馳せ、そして今夜の酒場へと向かった。
日もいい感じに暮れた。甲府の盛り場は、アーケード街を中心に横道がいくつも伸びている。その中の細い路地に迷い込むと、暗闇にぼんやりと緑色の看板が浮かんだ。
『くさ笛』
看板の矢印の刺す方には、さらに細い路地の『オリンピック通り』があった。そこを進むと、ある店の縄暖簾の中からやけに賑やかな声が漏れてきたのだが、その店こそが目的の酒場『くさ笛』だったのだ。かつての〝新天街〟の酒場と照らし合わせる想いで、私は縄暖簾を割った。
「は~い、いらっしゃ~い!」
声量、声質とも分かりやすい鉄火肌の女将さんが、元気よく迎えてくれた。十数席のカウンターのみの店内は、どうやら満席の様子で「ありゃま、いっぱいかぁ……」と落胆すると、女将さんが客全員に向かって言った。
「ちょっと、そこ詰めてあげて!」
女将さんの呼びかけに、まるで『十戒』の海が割れる場面が如く、あっという間に目の前の席が開かれた。なんという頼もしい女将さんだ。ありがたく、席を頂戴した。
女将さんにお礼をするのだが……誰かに似ている。
誰だっけ……いや、かなり似ているのだが、あの人だよ、えっとね──
……まぁいいかと、それより酒を選ぶことにした。山梨といえば『白州』のウイスキー蒸留所が有名だ。ロックもいいが、この店の雰囲気的にコイツを頼もう。
『ハイボール』
独特の深味というよりは、軽快な飲みやすさが特徴的でハイボールにはもってこいなのが白州ウイスキー。シャキーンと音が鳴りそうなカチ割り氷に、昼間見た南アルプスを想像して飲めば、清々しいウマさが一層増す。よし、次は料理だ。
「お姉さん、マグロブツを貰ってもいいですか?」
「……」
あれ? 女将さん、聴こえてないのだろうか……? もう一度、言ってみる。
「あのお姉さん、マグロブ……」
「アタシは〝お姉さん〟なんかじゃないよ!」
わっ、怒られた……!? そういえば、たまに〝お姉さん〟という呼ばれ方を嫌がる年配の女将さんがいる。かといって〝お婆さん〟などと言える訳もない……やってしまったな。しかし、怒り顔もやはり誰かに似ている。頭の中でぼんやり顔は浮かんでいるが、それが誰だかどうしても思い出せない。
「マグロブツ頼むんだったら、こっちの方がいいよ!」
「あ! じゃそれでお願いしますっ!!」
『くさ笛どっこ』
思わぬ女将さんのおすすめに嬉しくなり、聞きなれない料理を待つこと数分。『くさ笛どっこ』とは、冷奴にマグロブツを載せた代物なのだが、これまた酒呑みにピッタリなアテだ。豆腐を崩しマグロとネギを混ぜてチビチビやるのがいい。マグロブツのみだけでは、これを味わえないところだった。
「コロッケもうまいよ!」
帰省初日の母親の如く、次々と料理を薦める女将さん。もちろん断る理由も度胸も無いので、特製手作りコロッケをいただくことにした。
『コロッケ』
丸々と太った俵型のコロッケは、こんがりと揚って見るからにおいしそう。ソースをたっぷりとかけて熱々のところをガブリ──ンまいッ!! 荒潰しのジャガイモがゴロッゴロと口いっぱいにして、アッチッチと舌をやけどしないように食べるのがタマラン。そこへ白州のハイボールがまた合う、うまく出来ている。
『ニンニク丸揚げ』
揚るのを待つ間、ニンニクに付けて食べる『味噌』を用意されたのだが、女将さんからは「揚るまで絶対に味噌舐めたらダメよ!」と制される。それをしっかりと守り抜き、揚げたてが目の前に出されると思わず「わっ♪」と声が出る。こんがり色の表面はてらてらと美しく、そこから漂うニンニクの香りが辛抱堪らない。熱々の皮をパリパリと剥き、ニンニクを口の中へ放り込む。ホクホク食感に強烈な香気が絶対的においしい。今夜はキスが出来なくなってしまったが仕方がない。
「ここはだいぶ長いんですか?」
「東京オリンピック(1964年)からだよ」
ハイボールのおかわりついでに、恐る恐る女将さんに尋ねると、意外と……いや、予想通り優しく答えてくれた。今年で56年か……凄いなぁと、改めて店の隅々を見ると、その色褪せ具合がその歴史を物語っている。そこへまた、ひとりの客が尋ねてきた。
「こんばんは」
「あら、久しぶり!」
コートを着た若いサラリーマンの男性客。ほぼ満席状態だったが、もちろん女将さんの一喝で席を詰め、私の隣に座った。
「ずっと東京に出張だったんスよ」
「あら、そうだったの?」
「あと病気もしちゃって……」
「恋の病か!」
あははと、女将さんと男性客が笑う。これは酒のいいアテとして、いくらでも横で聴いていられそうだ。
「やっぱ、東京より山梨がいいスよ」
「そりゃそうだよ。アタシはここで、あと30年は生きるからね!」
まだまだ居座りたいところだが、女将さんと会話したい他の客の為にも長居は無用、店を出ることにした。「帰るのー?」と、まるでツンデレメイド喫茶の女の子の様でいじらしい。そして女将さんはひと言、
「また会いましょう」
と言った。
「ありがとうございました」「またお願いします」など、酒場を出る時にかけられる送り言葉はさまざまだが、〝また会いましょう〟なんていうのは初めてで、未だ耳に残るいい言葉だ。
久しぶりに出逢った、素敵な女将さん。こちらこそ、あの『料理の鉄人』にも出ていた、有名料理人にそっくりな女将さんと出逢えて……
思い出した! 神田川俊郎!
くさ笛(くさぶえ)
住所: | 山梨県甲府市中央1-20-23 |
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TEL: | 055-232-3948 |
営業時間: | 17:00~23:00 |
定休日: | 土曜・日曜・祝日 |