
高砂町「坊っちゃん」おでんに醤油、冷やしトマトには日本酒
母親の〝偏食舌〟を譲り受けてか、気が付かないうちに私ももれなく偏食舌になっていた。一緒に住んでいるときは、それが当たり前だったので何も感じなかったが、上京して他地域の人間と食事をして唖然とされる〝食べ方〟がある。
ひとつ目は〝漬物にマヨネーズと七味唐辛子〟である。特に白菜の漬物が食卓にあると、当たり前の様にマヨネーズと七味唐辛子が横にあり、母親は漬物へマヨネーズをたっぷりかけると、七味唐辛子をこれまた山ほど振りかける。そう、当たり前の様に。そこまで不味くはないのだが、漬物の良いところを完全に無視した珍品だ。
ふたつ目が〝おでんに醤油〟だ。今考えても、これは酷い。我が家の食卓では、よくおでんが登場しており、デカい土鍋をテーブルの真ん中にズドンと置いて、茶碗を片手にそれをつつく。これも人によっては「おでんと白飯!?」と気味悪がられるが、我が家はその鍋から取り出した熱々のタネに醤油をサッとかけ、白飯よろしく食らうのだ。
いくら秋田県民で濃い味が好きだとて、そこまで濃くしなければいけなかったのか……さすがに今では、高血圧が悪化するので封印している。
今から約二年前、私は愛媛県の松山で飲み歩きをしていた。ここの街は本当にすばらしいところで、歴史ある街の造りはもちろん、出会う人々が温厚で人懐っこい方ばかりだった印象が強い。そして松山といったら文豪『夏目漱石』だ。その縁の地で、さらに〝まさしく〟名前の酒場に出会っていた。
『坊っちゃん』
〝親譲りの酒飲みで大人になってから酔ってばかりいる〟
図らずも、小説『坊ちゃん』の冒頭を黙読してしまった。黄昏時に浮かぶ紅い提灯に白看板。藍色に白地で〝坊ちゃん〟と大書された暖簾がユルリとなびいている……いい意味で、力の入っていない良い外観ですよ。
〝こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一杯飲んで行こうと思って暖簾を割った〟
「いらっしゃいませ」
カウンターの両端には、『清』と『赤シャツ』……いや、おばさんとおじさんの先輩二人がそれぞれに飲っていた。私はその間に酒座を決めると、すぐさま目の前には取り皿がコトリ。
おやおや……『坊ちゃん』と思っていたけれど、こんなところに『吾輩は猫である』までいらっしゃるじゃないですか。
このカウンターからの眺めも、いいですねぇ。皿の重みで撓る棚、作業感たっぷりのステンレス調理場……これをネタに、まずはイッパイいきましょう。
『633』
この日は瀬戸内の温暖な気候を通り越して、南国のように暑かった。泡なし並々で一本勝負、グビリグビリと喉を冷たく潤してやるのだ。
「はい、冷やしトマトです」
右隣の清先輩に、冷やしトマトの山盛りが届いた。雰囲気でそれが今日初めての肴だと解る。気になるのが、それに合わせるのが日本酒だということだ。冷やしトマトと日本酒、そんなの合うのかしら……
『馬刺し』
おっほ、来た来た! これはウマそうな馬刺しだ。絵に描いたみたいに鹿の子模様がパターンされていて、珠玉のように美しい。冷凍されている馬刺しの食べ方は決まっている。
馬刺し用の甘醤油に肉を浸らせ、醤油で解凍をさせるのだ。しばらく経ったらそれを引き上げて、余分な醤油をチャッチャ、それに食らいつく。ひんやりとした食感、馬肉の馬味と甘醤油の蕩味が合わさって、なんとも幸せな馬さだ。
『鳥バラ』
ほっほー、鳥のバラ肉なんてもんがあるのか。串にビッチリとバラ肉を括り付けているのか、串がズシリと重い。咥えて串を引き抜くと、むぎゅっ、むぎゅっと音が聞こえてきそうなほどムチリとした食べ応え。ひと噛みする度に、バラ肉からは旨汁が溢れ出し、こりゃたまんねぇ一本だ。
「おでん、お待たせねー」
今度は、左隣の赤シャツ先輩におでんが届いたのだが……ちょっと待った! 直前に店員さんが、おでんに何かを回しかけたのだが──あれはまさかの、醤油だったのだ!
我が家の伝統的調理法が、松山の酒場で!? これには本当に驚いた……。赤シャツ先輩は、それを当たり前の顔で食べ始めた。やばい、ウマそうじゃないか……ずっと封印していたが、もう我慢できない。高血圧、上等じゃあい!
「すいません! こっちにもおでんお願いします!」
『おでん』
牛スジ、テカじゃがいも、玉子と大好物メンバーにしてみたのだが……残念ながら、私のものには醤油をかけてくれなかったのだ。うーむ、常連の赤シャツ先輩だからなのか……ただ、馬刺し用の醤油をかけるってのも、なんだか憚れる。まぁ、よかったような悔しいような……そのまま頂きますか。
牛スジは蕩けるようで、じゃがいもはホックホクでいい沁みしている。玉子なんて、それこそ醤油に浸していたんじゃないかと思えるほど茶色い、そしてうんまい。どれもうんまいのだが……何かがそれを強めに引き立てている。
「あっ、カラシに味噌が入ってる!?」
そうなのだ、付け添えの辛子になんと味噌が合わさっているのだ。これが本当にウマい。カラシに味噌の組み合わせ、これに出会ってから、家でおでんと飲る時には必ず真似している。
酒を『すだち酒』に変える。あ”ぁーこの酸っぱさ、たまんねぇなぁ。〝四国に来た〟って感じもする。
すだち酒を片手に、赤シャツ先輩に目をやると、醤油をかけたおでんに、さらに味噌入りのカラシをタップリ付け、エビス顔で頬張っていた。この赤シャツ先輩にもし子供が居たら、きっと私のような偏食舌になっているのだろうかと思うと、なんだか妙な親近感が湧いてくる。
清先輩の方はと……相変わらず大盛りの冷やしトマトと日本酒のみで、チビチビ飲っている。そういえば、小説の『坊ちゃん』に〝うまかったから天麩羅を四杯平らげた〟なんて一節があったが、この人も、このまま冷やしトマト四個くらい平らげて欲しいものだ。
おでんに醤油、
冷やしトマトに日本酒、
そして、カラシには味噌。
松山の坊ちゃんで、思わぬ偏食舌と出会った。
キュンと、すだち酒の酸味が、この偏食舌にも心地よい。
坊っちゃん(ぼっちゃん)
住所: | 愛媛県松山市木屋町3-6-4 |
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TEL: | 089-925-2650 |
営業時間: | 17:00〜1:00 |
定休日: | 正月 |