森下「山利喜」東京三大煮込みを越えてゆけ!
私はパンダを見たことがない
ぜひ行こうと思って、入念に予定を練っているにもかかわらず、なぜか行けない場所が数か所ある。ひとつに『上野動物園』があり、上京してから二十年以上も経っているのに、まったく行けていない。動物園は割と好きな方なのだが、いざ行こうとなると、園内改修中や長期休業期間などにブチ当たり、次に行く日を決めないまま忘却するのだ。そういえば、今月にも上野動物園に行く予定だったが、緊急事態宣言が延長されてダメになったばかりだ。だから、私はパンダを見たことがない。
調布にある有名な観光地、『深大寺』にも行ったことがない。一度だけ、調布の近くまで来て行こうと思ったのだが、一緒にいた派手な女の子に「年寄りくさい」と断られ、あっけなく立ち去ったことはある。
〝ここへは来るな〟
という〝思し召し〟なんじゃないか……? 行けなかった時には、必ずこう思うことにして、その〝ジンクス〟に従っている。
酒場にもひとつあって、彼の『太田和彦』先生が〝東京三大煮込み〟を出すと称した店で、月島『岸田屋』と北千住『大はし』の二店は既に訪れたが、残りの一軒だけが何故か行けていない。そこだけやたら遠いというワケでもなく、自宅から電車に乗ればそう遠くはない。あぁ、そうだ……ここは近くまでは行くのだが、何軒もはしごした後なので、酔っぱらってそのまま帰ってしまうのだった。だが、もういい加減行ってみようか……そう奮起すると、まずは電車に乗り込んだ。
ここはひとつ、〝無心〟でいくとこにしよう。
『森下駅』
最寄り駅を降りて、直ちには行かない。まずは先に、別の酒場を挟んで〝目的の酒場に行きたい!〟という気持ちを一旦抑えておくのだ。強く想わず、あくまで〝無心〟で。そうすれば今回こそきっと上手くいくはず……こんなことを力説しているのがアホらしくなってくるが、今回の私は本気だ。
森下の酒場で数軒飲ると、そろそろ目的の店の口開け時刻だ。あぜらず、知らん顔をしながら店に向かっていると……
「スマホが、無い!」
人の目も憚らず、ポケットというポケットをひっくり返して探したが、無い。「うわぁ、また行けないのかよ……」スマホを無くしては、酒場の撮影もメモも出来ない。途方に暮れながら、歩いてきた道を探し戻ってみると、途中で立ち寄ったコンビニのトイレにありやがった。
どんなに酔っ払っていても、スマホだけは忘れることなどなかったのに……嫌な予感しかない。スマホはあったが、もしかすると目的の酒場が〝臨時休業〟になっているのかもしれない……。
不安に駆られながらも、ついにその酒場の前までたどり着いた──
『山利喜 本館』
完全にビルじゃん! だいぶ前に建て直したとは訊いていたが、まさかこんな巨大ビルになっていたとは……。洋風の中にも和風を感じさせる独特の外観。これはある意味で楽しみだが、とにかく、まずは営っているかどうかだ。
……遠目にはよく見えないが、なんか、いやーな張り紙がチラつく。まさか〝~日まで臨時休業〟の張り紙じゃないだろうな。最近は、何度この張り紙を見て愕然としただろうか。祈るような気持ちで、確認しに向かった。
あっ!
営ってる!! 暖簾が出ている!!
ア──ン、ヨカッタヨ──!! 店先でカンゲキしていると、若い店員さんがやってきて、半地下へと通された。うおぁ……ドキドキする。
いいですねぇ、いや、いいですよ。店内はかなり新しいが、よく見ると建て替え前のものであろう、扁額や木札が並んでいる。その新旧のコントラストが、またいいじゃない。
おっ、うわさのワインセラーがある。山利喜は代を重ねるごとに進化する酒場で、三代目が煮込みに赤ワインとブーケなんちゃらを……もうね、酒場ファンには周知され過ぎたことばかりなので、私がいっちょ前に語るまでもない。
いやぁ、遂に入れた。長かったなぁ……などと、感慨深く奥のテーブル席に座る。すぐにでも祝杯といきたいところだが、まずはここで拝んでおきたい酒があるのだ。
『レモンサワー』
カットレモンが、めんこいッ!! まるで〝お尻〟のように見えるカットにセンスを感じる。お尻サワーをグイっと飲り、続いて料理だ。メニューを見ると、真っ先に飛び込んでくる〝煮込み〟という文字を、一旦グッと呑み込みつつ吟味していると……
「軟骨タタキ、ありますよー」
先ほどの若い店員さんが、おすすめを教えてくれる。オーケーオーケー、呑と来い。今日は山利喜に抱かれるつもりで来ている。断る理由など1ナノメートルもございやせん。
『軟骨タタキ』
数量限定なのに、大胆に四本も頼んでごめんなさい。まずは見てください、顔が映るんじゃないかと思うほどのテカり具合。そこから、甘じょっぱい湯気がプァンと鼻を蒸す。我慢など出来るわけもなく、カラシを付けてガブリと喰らいつく──うっひょ、うんめぇ! ムッチリとした豚ミンチ肉の中に、カリコリと軟骨が小気味いい。想像していたより三倍深いタレの滋味に、ツンとカラシの刺激が絶妙なりけり。
『コハダ酢』
コハダは釣り好きなら解るが、淡泊過ぎて焼いても煮ても大してウマくない。ただ、酢締めにすることで爆発的にそのウマさを発揮する。言い換えれば、酢締めでマズければどうしようもないのだ。ここの名物ともいうコハダ酢、箸をパチリと割ってそのままひと口──これも、ウマいねぇ。ため息が出る仕上がり。シットォリとした歯触りが、均一に酢締めされた手練の技だと解る。酢の漬かり具合も申し分なし。醤油の味など邪魔になるだけなので、最後までそのままいただきましょう。
「おまたせしましたー」
背後から聞こえる、若い店員さんの声。まさか……と思いつつ、振り返るとそこには──
『煮込み玉子入り』
で、で、出た──ッ!!
片思い中の女の子を、偶然街中で見つけたかのように胸が高鳴った。陶器のシチュー皿からは、グツラグツラと熱気が満ちあふれ、ついにそれは目の前へと置かれた。ゴクリと、早速その熱気に箸を挿れる。
ちょっと、見てごらんなさい。ホラホラ、牛スジが……溶けてきているでしょう? 牛の甘い香りを漂わせながら、ゆっくぅりと、割り箸がスジに埋もれていくように……おっとっと、落ちちゃう落ちちゃう。慌てててて、口の中にスッ──ウゥゥンメぁぁぁぁいぃぃぃぃッ!!
すでに東京三大煮込みの二つを味わい、他にも錚々たる名煮込みを食してきたから解る。こいつは、確かにうんめぇ。私はワイン仕込み系の煮込みが大好きなのだが、ここのは他と比べても渋みが強めで、なんとも玄妙な味わいだ。これが、なんともいい。
そして、玉子ちゃんのホクホクぶりよ。パコッと割れば、しっかり中まで沁みて具合良好。そのままでもウマいが、毎回スープに浸らせながらが食べるのが舌に吉。
陰の立役者、『ガーリックトースト』も忘れてはいけない。カリッとガーリックの香ばしいトーストと、洋風煮込みの出逢い……ウマいに決まっているじゃない。煮込みにガーリックトーストなんて、他の酒場ではなかなかお目にかかれない。しかし、こうしてここの煮込みを食してみれば、この相方は至極当然。これがただのトーストではなく、ガーリックというところが巧みだ。
あっという間にすべて平らげると、念願の東京三大煮込みは、これにて踏破したのだ。
「嗚呼、ウマかったぁ……」
踏破してみれば感想などないし、やはり煮込みなんてものはどんな酒場にもあるのだけれど、それだけに、その酒場にしかない〝唯一無二の存在〟なのだと、改めて思うことができた。
それと同時に、
「自分だったら、あそこに、あそこと……」
今度は、自分の足で稼いで見つけた〝東京三大煮込み〟を啓蒙したいという想いが、沸々と込み上げてきたのだ。まぁ、それにはまだまだ酒場しなければいけませんが。
〝ここへは来るな〟
なるほど……確かに、その通りだ。来なくてよかったのだ。
〝ここへは『まだ』来るな〟
今、来られたからこそ、意味があったのだ。今後は、こっちのジンクスに従うことにしよう。
そうなると、上野動物園のパンダに会える日も、楽しみでならない。これだけ待ったのだから、きっとパンダと一緒に酒を飲みに行けるくらいのことはあるかもしれない。
山利喜 本館(やまりき ほんかん)
住所: | 東京都江東区森下2-18-8 |
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TEL: | 03-3633-1638 |
営業時間: | [月~土] 17:00~22:00 |
定休日: | 日曜日、祝日 |