松山「小判道場」はじめての愛媛酒場入門(1)
高校生の私は、地理の授業で地図帳を広げていた。北から北海道、東北、関東……パラパラとページをめくっていると、ある地方でめくるのを止めた。
『四国地方』
〝俺、死ぬまでにここ行くべが?〟
正直、秋田出身の私はつい最近までこの疑問を持ち続けていた。とは言っても、四国に住む人だって〝東北に行くことなんてあるのだろうか?〟という疑問を持っている人も少なくないはずだ。
そもそも、四国には何があるのだろう? えーと、みかん……うどん、あとはオーストラリアくらいか……。何十年間もそんな発想しかなければ、やはり一生行くことはない場所には間違いないようだ。
そんな私が、40歳を前にして〝四国へ行こう〟というきっかけが出来たのだ。それはもちろん、『酒場』である。
『愛媛県松山市』
5月末、成田空港から浮かぶこと一時間と少し。とにかく〝遠い島国〟というイメージしかなかったが、あっという間に人生初、そして一生来るとは思わなかった四国の愛媛県に降り立ったのだ。因みに4県あるうち、はじめての四国に愛媛を選んだ理由は〝県名が可愛いから〟である。
松山空港のロビーを出るなり、愛媛は〝蛇口からオレンジジュースが出る〟という噂は本当であったことに安心しつつ、いざ愛媛の中心松山市内へと向かった。
想像していたより、遥かに都会の松山中心地。
そんな市内を走る、オレンジ色のチンチンの電車がとてもとても可愛い。さすが『みかんの国』だけに、松山は電車、バス、チンチンをはじめ、オレンジ色が多い。
『大街道』
松山市駅を少し離れると現れるのが、とにかく道幅の広いアーケード街『大街道』。そこからさらに何本もの横道が交差し、そのひとつを進むといくつもの酒場がある歓楽街が広がる。
そしてその中に、あった……大衆酒場だ。
『小判道場』
歓楽街の派手できれいな店が並ぶ中、〝火事直後か?〟と見紛うほどの煤汚れた外観。これだよこれ、ここだけは必ず行きたい酒場として事前に調べていたが、やはり押さえておいてよかった。
店先の看板には〝刺身 瀬戸内の魚〟
いいねぇ、瀬戸内の魚は是非とも試してみたい。興奮する気持ちが抑えきれずに、色褪せた白暖簾を勢いよく押した。
「いらっしゃーい」
ピンクのエプロンが似合う女将さんが迎えてくれる。広々とした店内の約半分が厨房で、その中ではマスターが仕込みをしていた。愛媛の酒場をネットで調べると、どのサイトにもこの店が目立っていたので、もっと混んでいるのかと思っていたが、店を開けたばかりらしく他に客は誰もいなかった。
パンチの効いた外観とは違い、店内は古いながらもよく磨かれており、ちょっとした小料理屋のようだ。角の丸くなったカウンターが、お婆ちゃんの背中のようになんとも良い肌触り。よし、酒だ。
「酎ハイ、ありますか?」
「ありますよ」
おっ、愛媛では〝酎ハイ〟という言葉が通用するのか。関西でこの酒が通用する酒場が少なかったのでもしやと思ったが、どうやら四国では大丈夫のようだ。「じゃあそれを」と女将さんに告げると、
「味は何にします?」
えっ、味? 焼酎と炭酸だけの酎ハイに味とは一体……。渡されたメニューを見るとなるほど、そういうことか。
ここで言う『酎ハイ』とは、焼酎に炭酸、そこへ味の付いたシロップをまとめて『酎ハイ』と呼ぶようだ。因みに、松山では他に数軒行ったが、どこの酒場も『酎ハイ』を頼むと必ず味を訊かれた。地域による酒の違いは、やはりおもしろい。
『グレナデン』
どこかの音楽ユニットのような名前だが、ザクロ味の付いた酎ハイである。はじめて飲む酎ハイだが、甘酸っぱくすっきりと飲めてウマい。東京でも、このキマグレンのシロップが売っていたら欲しい。
慣れない酒を飲んだら、やはり慣れない料理が食べたくなるのが呑み助の性というもの。そうだ、外の看板にあった瀬戸内の魚がいい。黒板メニューを見ると、いいのがあったので女将さんに注文する。
「アマギ唐揚ください」
「ごめんね、今日は入ってないのよ~」
あらま、そうかぁ……。アマギとは『イボダイ』の地方名で、〝これぞ瀬戸内の魚〟を食するにはうってつけだと思ったのだが残念だ。気を取り直して他を注文する。
「じゃあ、赤ナマコ酢ください」
「……ごめんね、それも入ってなくて」
うっそ!? 瀬戸内名産の赤ナマコもないなんて……さすがに2品連続で品切れとはショックが大きい。それを見かねてか、マスターが私に言った。
「この時期、魚が全然入って来んのじゃ」
訊けば時期的に魚が入りづらいらしく、この店の名物となる魚料理はほぼ全滅であった。しかし、私が東京からわざわざ来たことを知ると、店にある魚でなんとかすると仰る。はじめての街のはじめての酒場では、こういう酒場人情が堪らない。
「いらっしゃーい」
「ひとり、いけます?」
料理を待ち始めると、中年男性ひとりが店に入ってきて私の隣の席へ座った。女将さんとの会話から、偶然にもその男性も東京から来たのだという。
「アマギ唐揚ちょうだい」
「すいません、今日は入ってなくて……」
私と同じ件を始める男性。「えっ」とする表情に、同じ東京から来た身として同情せざる負えない。
『じゃこ天』
愛媛の郷土料理のじゃこ天は、地魚をすり身にして油で揚げたもの。淡白な味わいもいいが、シャリリとした独特の食感が楽しい。こりゃ、お土産で決定だな。
「いらっしゃい」
「2人なんですけど」
今度はこの店の雰囲気には合わない、若い男女カップルが店に入ってきて座った。言葉や服装の感じから、おそらくこの2人も関東方面からの観光客なのだろう、彼氏が「アマギ唐揚ください」と言うと、やはり女将さんは「ごめんね……」と返事をしていた。
『アジの天ぷら』
特筆すべきは、一緒に出された茶色い粉。なんと天ぷらにカレー粉を付け食べるのだが、これがまたウマい。
もしかしたら愛媛ではポピュラーな食べ方なのかもしれないが、これは目から鱗、サックリ衣にカレー粉のスパイシーな風味が良く合う。家で天ぷらを食べる時も真似しよう。
「すいませーん、ひとり空いてます?」
「えーと、そこの席どうぞ」
さらに40歳代くらいの男性が入ってくると、席に座りビールを注文した。やはり、「アマギ唐揚を……」と言う。それに女将さんは聞こえているのか聞こえていないのかは定かではないが、ついに無言だった。そりゃ、これで4回目だもの。もちろんその後に説明をしていたが、私だったら客が入ってきた瞬間に「アマギないよ!」と発狂気味に言ってしまいそうだ。
『刺身三点盛り』
1、2、3、4……あれ、五点盛り!? マスターは「アワビまで入れておいたで」と言って女将さんと莞爾として笑う。不漁と言っているだけに、刺身にはそれほど期待はしていなかったが、これが予想に反してウマい!! 赤身と白身はハリが抜群によく、ホタテの甘味、アワビはコリッコリの歯応えで魚介の様々な味わいが楽しめる。ある意味〝不漁〟でよかったのかもしれない。
気が付けば、左手のキマグレンを愛媛の辛口名酒に持ち替え、しばらくは初めての夜をこくこくと浸るのであった。
──ポタリ、ポタリ。
(あれ、雨漏り?)
厨房の天井から雫が落ちている。天気予報では夜から『大雨』と言っていたが、ついに降り出したようだ。雨漏りなんて都会の店だとえらい騒ぎになるが、この建物でみる雨漏りは何故だか雅趣に富んでみえなくもない。まぁそろそろ、店を出るか。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうね~」
店の戸を開けると、やはり雨……いやまるで台風だ、音がやばい。自分が濡れることよりも、この店の耐久性を案じていると、また新しい客が入ってきた。
「ひとりだけど、入れる?」
「──いらっしゃい」
また〝魚がない〟の件をするんだろうなぁ……。にやりとしながら一気に大街道まで走ると、次の愛媛酒場へ逢いに向かった。
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小判道場(こばんどうじょう)
住所: | 愛媛県松山市二番町2-6-1 |
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TEL: | 089-945-9927 |