新子安「市民酒蔵 諸星」あなたと私の酒場探求の道
かの有名な居酒屋研究家である『太田和彦』先生は、兵庫県三宮にある『森井本店』に訪れたことにより〝酒場探求〟という道を志したという。それを訊いた時に、果たして私の〝酒場探求〟の道は、どこから始まったのだろうかと考えてみた。少し思い返してみたが、おそらく……いや、間違いなくあの酒場だと閃いた──。
第二次世界大戦末期、横浜の酒場では独自の制度が始まった。簡単に言うと〝配給制〟で酒を提供するという、現代呑兵衛には想像もつかないような制度だった。そのような酒場のことを『市民酒場』と称し、もちろん、そんな制度はとっくに廃止されているのだけれども、未だにその屋号を掲げて営業している酒場があるのだ。
『市民酒蔵 諸星』
京浜東北線『新子安』駅から目と鼻の先にあり、数年前にはじめて酒場ナビメンバーのイカと一緒に行った酒場で、当時この外観を見た時の衝撃は未だに忘れることができない。まず目に入るのが、〝諸星〟と気品高く浮かび上がる金色の店名。そして〝市民酒蔵〟と大書され、低く掲げられた大暖簾である。
その後、何度もこの外観を拝んでいるが、何度見ても見惚れる美しさだ。その圧倒的な存在感から、当時は〝恐怖心〟すら感じていた。
それはさておき、この暖簾を潜る時が、他のどんな酒場の暖簾を潜る時より一番楽しみなのだ。
だってね、ほら……
ねぇ? 中も凄いんですよ、脱いでも凄いんですよ……! 入って左壁にはビッシリとカラフルな短冊メニューが並び、その裏には様々な酒がこれもビッシリと並んでいる。右側には、四人掛けのテーブルが四卓あり、こちらの壁には扁額や古いポスター、花瓶の花などが飾られており、中にはギターなんかもある。そういえば、コンクリ剥き出しの床の酒場もここが初めてだった。
それから、諸星といったら何といってもこの〝長カウンター〟を絶対に忘れてはいけない。何メートルくらいあるだろうか、店の入り口から店の一番奥までズドンと音を出して伸びる様な大迫力だ。カウンターの両脇から向き合って飲る為、表面は両脇の色が薄く、中心に向かって色が濃くなっている。その向き合う飲り方がここの醍醐味なのだが、ウイルスの大馬鹿野郎のせいで現在は出来ないのだそう。愉しみも半減といったところだが、今回は知人と三人で訪れていた為、四人掛けテーブルにはじめて座ることになった。
ほほう、このテーブルから見る長カウンターの光景も見事じゃないか。ウイルスの功名と言うべきか、さっそくその光景のお酒をいただくとしましょう。
『トマトハイ』
ここに来て決まって飲むのがこれだ。なんでだろう……おそらくここへ来る時は、はしご酒の締めとして来ることが多いので、一度喉をスッキリとしたいからではないだろうか。こうして、長カウンター越しに見るトマトハイの赤色がいいねぇ。
キュッと喉を洗って、冷たい酸味を愉しむ。あぁ……やっぱりここのひと口目はこれが正しい。
店の最深部には黒板の札メニューがあるのだが、それもはじめて見た時は「なんちゅう渋さだ!」と興奮したものだ。さぁて、今夜もその中から名物料理をいただくとしましょう。
『モツの煮込み』
それまで煮込みと言ったら小椀で出されるのが当たり前だと思っていたが、〝浅皿〟で煮込みを出すのもここがはじめてだった。そんな今までの常識を覆された煮込みは、牛モツ、フワ、コンニャクを味噌で煮込んだだけで、ネギすら乗っていない潔いシンプルさがいい。相当煮込んでいるらしく、モツとコンニャクの見た目の差は殆どない。そこからモツを探して箸で持ち上げると、その時点で「柔らかい!」と咆哮するほど箸先の抵抗がない。もちろん、口に入れたところでそれは同じく、租借をほとんどせず蕩りと舌へ溶け込んでしまうのだ。厭らしくなくい牛の風味が口内へと広がり、じんわりとその旨味を堪能することができる。
『うの花』
正直なところ、うの花は苦手なのだがここのだけは大丈夫……いや、大丈夫どころかウマいのだ。うの花の何が苦手かというと、あのモソモソとした食感なのだが、これはしっとり──かつ、口の中でさらりと解けるような清々しい食感が堪らないのだ。人参と椎茸が丁度良いバランスでオカラと交じり合い、上品な味付けも申し分ない。大丈夫なんてもんじゃない、これは名作である。
『とんみの』
ここでいうとんみのとは、豚のガツと玉ねぎのスライスしたものを、おろしポン酢とゴマ油で和えた品だ。これをひっくり返してよく混ぜる。そうして仕上がったら、多めのカラシを付けて食べる──ンまいッ!! 細切りのガツと玉ねぎがさくさくと歯触りよく、それにおろしポン酢の爽快な風味が最高に合う。
「あのメニュー書いてるのって、どういうこと?」
友人が指をさした先に、『ホタルイカの素干し』と書かれた札メニューがあったのだが、〝ライターで炙って食べます〟と添え書きされている。ははぁ、この子はあの食べ方を知らないのだな。どれどれ、ひとつ頼んでみるか。
カチッ!!
ジジジジ……
「こんな感じでいいの~?」
「そうそう、軽く炙る感じでね」
知人がおもしろがってやる。はっきり言ってこんなことはせず、初めからコンロで炙って出しても味に大差はないだろう。ただ、これを酒場でやるというのがいいのだ。これを一般に流行らせたのは『ワカコ酒』だろうか、最近は若い女の子も本当に〝大衆酒場〟が好きらしく、いっちょ前に〝オジサンがいっぱいいるような〟や〝酒場放浪記みたいな〟なんて酒場を知りたがる。まだまだ小僧ではあるが、こんな私にも「どこの酒場がおすすめ?」なんてことも訊かれるから、こんなことを長年続けていてよかったと思う。
客が引き、見通しの良くなった店の奥にはマスターが居るのが見えた。そして、思い出した──。はじめてイカとここへ訪れた時に、なぜかマスターが昔の店の写真を出しながら色々と語りだしたのだ。額に入った店の白黒写真と古い切り抜きを見せながら、市民酒場の詳しい話や、私たちの質問にも答えてくれたのが本当に楽しい時間だった。……果して然らば私の〝酒場探求〟の道は、ここから始まったのだ。
もしかすると今も時間があれば、私たちの時と同じように客へ語っているのかもしれない。
そう思うと、仲間が増えたようでなんだか嬉しい。私も久しぶりにホタルイカを炙りながら「おもしろい食い方だよなー」と、しみじみ、そして改めて酒場の楽しさを噛みしめたのだ。
今残る横浜の『三大市民酒場』は、ここと『常盤木』、残念ながら『みのかん』は閉まってしまったが、そのふたつの酒場はこれからもずっと続けて欲しいと願うばかりだ。
あなたが〝酒場探求〟を始めるきっかけとなった酒場はどこか。
たまにそれを思い返して訪れてみるのが、名酒場の〝灯〟を残していくひとつの方法なのかもしれない。
アチチッ
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市民酒蔵 諸星(もろぼし)
住所: | 神奈川県横浜市神奈川区子安通3-289 |
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TEL: | 045-441-0840 |
営業時間: | 17:00~23:00 |
定休日: | 土曜・日曜・祝日 |