四ツ谷「鈴傳」山の手の中心で、大衆をさがす(2)
私は〝お勉強〟というものが好きで、こう……知れば知るほど、脳みそに吸収されていく感覚がいいんですよ。
先日から開眼した、山の手の大衆酒場探しだが、その後もお勉強という名の〝発掘〟に夢中である。不案内な土地の酒場へ行くときには、事前にその土地のことを調べて行くことが多い。戦後のヤミ市に花街の跡、現代だと工場地帯や公営競技場、あとは市場が近くにあれば、大概いい酒場が付いてくるものだ。
そうそう、お役所の資料なんかも情報を提供してくれる。『東京都都市整備局』のホームページにある、戦災復興事業として大規模な区画整備をした土地なんか狙い目だ。本所、深川、蒲田、板橋、北区などなど、今で呑兵衛の楽園と化している土地ばかりだ。ちょっと驚いたのは、『内閣府』のページにある〝災害史〟の項だ。関東大震災後一週間後に、赤坂、麻布、芝、本郷、四ツ谷などに〝公設市場〟を作っていたらしいのだ。山の手と市場が揃うなんて、今の私にはまさしくドストライクである。
四ツ谷といえば、先日『福よし』という名酒場を発見したばかりだが、そういえば……と〝あの老舗店〟の存在を思い出したのだった。
『鈴傳』
テレビや新聞、雑誌やWEBなど、ほとんどの酒場系メディアには出演したのではないかという有名な酒場だ。東京の角打ちといったらココを思い出す、という人も多いのではないだろうか。
外観はまず、その目を引く看板だ。蛍光イエローが古き時代を感じさせる。すぐそこまで巨大ビル群が迫っているというのにこの貫禄である。
建物自体は一見、普通の酒屋のように見えるが、金文字浮彫の大扁額がドドンと掲げられ、一般的な角打ちにはない迫力がある。さて、これのどこに飲れる場所があるかというと、建物の隅っこにある小さな間口がそうなのだ。
「いらっしゃいませー」
店に入り細い通路を抜けると、そこには小広い立ち飲み空間が広がる。いいですねぇ……特徴的な緑の内壁、壁際には白いメラミンテーブルが数脚、真ん中にはJの字カウンターがある。それを白熱電球が、煌々と店内を照らしている。その独特な雰囲気は……そう、これは秘密基地だ。夜な夜なこの秘密基地には山手っ子が集まり語らう──ここにあるものすべて、アダルティで格好良くみえるが、これもまた完全に〝大衆〟の嗜みの場のひとつだ。
さぁさぁ、今夜はここで山の手ならではの大衆を、お勉強させていただきましょう。
まずは酒を頼みに、Jの字カウンターにあるキャッシュオン窓口へ行く。『福よし』でもそうだったが、何彼無しにレモンサワーを女将さんに頼み、金を差し出した。すると……
「レモンサワーは置いてないんですよ」
なんと……サワー系全般は扱っていないとのことだった。そうだった、ここは老舗の角打ち場だ。周りの先輩を見ても、みな清酒や濁り酒、焼酎を飲んでいる。
はずかしいなぁ……あたふた汗顔していると、女将さんがある日本酒をすすめてくれたのだ。
『天賦』
芋焼酎帝国の鹿児島で、日本酒など造っていたのか……! その珍しさに興味津々で、ツイ──……うんめぇ。飲り育った北国の荘厳な味わいとは逆に、南国ならではのフルーティで暖かみのある豊かな味。おそらく、現代の様々な技術革新によって鹿児島でも日本酒が造られるようになったのだろうが、酒とはやはりその土地の個性が出るのがおもしろい。
なにより、店に入ってイッパツ目に日本酒というのが優越感を感じる。大人に、山の手の大人になった気分だ。そんな大人の気分で、この日本酒に合わせるアテは……
「大根を煮たやつ、ありますよ」
女将さんはそう言いながら、カウンターのおでん槽に浮いたタネに汁を掛け、丁寧に育てていらっしゃる。そんな汁エットを見せられて、頼まないわけにいかない。今夜は女将さんにお任せしましょう、お勉強させていただきましょう。
『大根を煮たやつ』
ほんわりと温もりを放ちながら、煮たやつが目の前にトン、箸をパチリ。ぽくぽく玉子にぷりぷり竹輪、さつま揚げのドッシリとした食い応えもたまらない。この椀で主役になる大根は、どこの面をみてもよく染みていてウマそうだ。箸でムンズと持ち上げひとかじり──シュクリといい音を鳴らすと共に、口の中にタネそれぞれの合わさった旨汁がじゅわりと広がる。そこに天賦が合わさると、これ以上にない幸せが口中を駆けめぐるのだ。
『しめ鯖』
こちらも女将さんのおすすめ。キュウリの千切りを敷きヅマに、銀色に輝く身がねっとりと並ぶ。そのひと切れを箸でつまみ、口へ入れる。ムチッ……スッペ……ムチッ……酢締まりのなんたる絶妙なことよ。
肉厚の身から滲み出るような酸味が広がり、脂と共に渾然一体となる。鯖と酢は、なぜにこんなに合うのか。もはや、泳いでいる時から酢締めになっていたんじゃないかと疑う。さらに追い打ちをかけるように、天賦の芳醇フルボディな旨味が、文句なしにマリアージュする。それこそ、泳いでいる時から天賦締めになっていたのだろう。
「この皿の柄、いいなぁ!」
取り皿としてもらった小皿に、思わず声が出た。相撲番付風の、妙々たる柄に目を奪われたのだ。私の名酒場ジンクスの中のひとつに〝器がいい〟というのがある。いい店は、器ひとつにしてもセンスがいいのだ。
……おっと、この内壁もよく見ると柄がステキだ。切り取って家飲み用のコースターにしたい……あら、床のタイルもまた……
この意味もなく、自分なりの価値観でマッタリと過ごす時間こそ、大衆酒場の在り方のひとつだと自負している。お勉強好きの私は、ここでいつも〝もっと、この酒場のことを知りたい〟と、意味もなく夢中になるのである。鈴傳の公式ホームページを調べてみると、トップページにはでかでかとこう記されていた。
「美 酒 探 求 地 方 名 酒 日本酒の世界を巡る、170年の旅」
創業年数を〝旅〟に例えちゃうところがニクイ。途方もないその旅路に、少しだけお邪魔させてもらいつつ、早くこの山の手の大衆酒場に似合う呑兵衛になれまいかと、天賦を飲み干し、女将さんにもう一杯ねだるのだ。
「これも鹿児島で、『吉兆宝山』ていう芋焼酎はどうです?」
「おっ、それお願いします!」
170年前なんて、もしかして江戸時代か?
えーっと……
相棒を芋焼酎のお湯割りに変えると、今度はその頃の山の手とはどんなだったのかと、またお勉強をはじめるのである。
鈴傳(すずでん)
住所: | 東京都新宿区四谷1-10 |
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TEL: | 03-3351-1777 |
営業時間: | 17:00~21:00 |
定休日: | 土曜・日曜・祝日・お盆・年末年始 |