異世界の「無人村」に迷い込んで酒を飲んできた話
「ここは、どこなんだ……?」
駅で降りたことまでは覚えている。日差しの強い、真夏日だった。止まらぬ汗と共に、あてもなく歩いていると、辺りはみるみるうちに深い森に包まれていったのだ。
〝不思議な何か〟に、呼ばれていたのかもしれない。その森の奥へ奥へと私は吸い込まれるようにして歩き続けた。
一時間……いや、もっと歩いたかもしれない。ずっと人気がなかった山の中に、忽然と謎の〝白い帯〟が現れたのだ。
白い帯は、ゆらゆらと揺れていた。一体、これは何をするためのもので、なぜこんな山奥にあるのか……ふと、背中に冷たいものを感じた。ただ、ひとつ解ったことは、ここはどこかの〝村〟であることだ。どうやら私は、山奥の村に迷い込んでしまったようだ。村ならどこかで休憩させてもらおうと、先へ進んだ。
しばらくすると細い橋があり、その真ん中まで来て辺りを見渡した。……誰もいない。この村の人々は、いったいどこへ行ったのだろうか……生ぬるい汗が、とめどなく流れ続ける。
村の集会場だろうか……広場のような空間に、大きな瓦屋根の建物。そこへいくつもの縁台が整然と向いていた。
「すいませーん、誰かいますかー?」
何かの〝儀式〟をするための場所か……? 大声を出してはみたものの、空しいほどに人の気配を感じることは出来なかった。引き返そうか……いや、もう少し歩いたら、人が居るかもしれない。さらに山の奥へと進んだ。
おや、あれは……?
森の中に、小さな集落が現れた。およそ現代の建物とは思えない、合掌造りの屋根がいくつも見える。やっと……やっと村人に会える──だいぶ歩き疲れていたが、砂漠で泉を見つけたが如く、その集落まで走って向かった。
ひとつの民家の前まで辿り着いた。かなり古いが立派な民家で、庭先の手入れも行き届いている。これは人が居るに違いないと、間口から中を覗いた。
「こんにちはー、誰かいませんかー?」
……返事はなかった。大きな土間にはカマドの炊事場、広い座敷の奥には畳の間もある。典型的な〝田の字型民家〟の内装だ。ただ、そのどこにも人影は見当たらない。
隣家にも訪ねてみた。こちらも同じような造りだったが、やはりここもなぜか人影はない。生ぬるい汗が、イヤな汗に変わっていた。
「どうなってやがる……」
その後も村の中を進み、どの民家も隈なく人を探した。だが、建物はどこも手入れがされているのに、人がいないのである。この村は一体……底知れぬ恐怖が込み上げてきた。
元来た道を戻ろう……これ以上この村に居ては、本当に帰れなくなってしまう気がした。
ハッ……! そもそも、この村自体が〝存在しないもの〟だとしたら……そうだ、駅を降りてから、私はどこかの〝異世界〟に迷い込み、この謎の村に逢着してしまったのかもしれない。
そうなると……例え来た道を戻ったとしても、この異世界から〝現実世界〟へ戻れる保証はないじゃないか。どうしたらいいんだ……異世界で独り、絶望に立ち尽くした。そして、容赦ない日差しが体力を奪っていく。このまま帰れないのなら、せめて大好きな酒の一杯だけでも飲んでおきたかった。
途方に暮れながら、ふと目をやった民家の軒先に〝あるもの〟が見えた。
「あれは……何かの品書きか?」
私は最後の力を振り絞り、その品書きらしきものの前まで駆け寄った。そして、驚愕したのだ。
「ビール……だって!?」
その品書きの列には、しっかり〝ビール〟と記されていた。暑さで幻覚でも見ているのか……でも、確かに日本語でビール書かれている。しかも、中からは人の気配まで感じるではないか。まさか、ここは酒場なのか……?
ええい、夢でも幻でいい! とにかくこの中へ入って、ビールがあるのかどうかを確かめなければならない。
小さな土間に入ると、目の前には囲炉裏のある座敷があった。その手前には、上の階に上る階段があるが〝立入禁止〟と札が立っていた。
やはり、ここにも人はいな……
「いらっしゃいませー」
わっ!と驚くと、土間の奥から前掛け姿の〝老婦〟が現れたのだ。いや、それよりも……ついにここの村人を発見したのである。私は歓喜で小躍りしそうになったが、なにやらその老婦はこの場で〝注文〟を訊くというのだ。やはり、ここは酒場なのか? そうか、そうとなれば……
「あっ、あっ、あのっ! ビールはあるんですか……?」
私はゴクリと唾を飲んだ。もしも、壁にあった〝ビール〟という文字が幻だったとしたら、絶望のあまり卒倒してしまうだろう。
「ありますよ。瓶ビールでいいかしら?」
なんと!……ビールが、ビールが飲めるのだ! 私は高速で上下に頷いて見せると、老婦が家の奥へと招き入れてくれた。
うおっ……なんだ、ここは! 土間を抜けると、そこには広大な座敷が広がっていたのだ。ざっと100人は入れるだろうか……太い梁に障子の襖、畳の上には骨董品のようなテーブルがいくつも並べられている。これはまさしく、異世界そのものだった。
「冷房が効いてるからね、この席使ってね」
老婦に案内されるまま、異世界冷房の前のテーブルに腰を下ろした。なんて冷たい風……黒魔法ブリザドのようだ。やっと一息ついたところで、目の前の障子の襖を開けてみた。すると……
うおぉぉぉぉ! 目の前に〝異世界縁側〟が広がった。こんなところで酒が飲めたら最高だろうなぁ……
「はい、瓶ビール。お待たせね」
い、異世界ビールの召喚だっ! まさかこんなところで、本当にビールが飲めるとは。
ゴギュッ……ゴギュッ……エミリアッ……、んまぁぁぁぁいッ!! チンカチンカのしゃっこい最高のルービーだ! 異世界を彷徨い続け、無くなった水分の代わりに麦汁が浸透していくのがドクドクと分かる。縁側の向こうには相変わらず人気はないが、ここだけはセーブポイントの様に安心感に満ち溢れている。
ビールと共にお願いしていた『煮込み』の美しいことよ。豚モツとコンニャクと大根の、シンプルな王道煮込み。
つんもりネギをたっぷり絡ませてひと口やると、トロリとしたモツの旨味が、それこそ異次元レベルなおいしさだ。
──ズルッ、ズルルルルッ!!
うん?……何の音だ。謎の啜り音が店内に鳴り響いた。後ろを振り返ると、いつのまにか作務衣を着た〝旦那〟がひとり『ざる蕎麦』を啜っていたのだ。普段ならば気にもしないのだが、この旦那の蕎麦のやり方がなんとも〝粋〟なのだ。座布団に姿勢よく正座をして、蕎麦をかなり高くまで上げると、ツユにサッとくぐらせ勢いよく啜る。それを何度か繰り返して「ごちそうさま」と手を合わせてから去って行った。
か、かっこいい……この村の住人だろうか、それとも蕎麦の妖精か? その〝異世界人〟に魅了された私は、同じく老婦に蕎麦を頼んだ。
まぶしいっ! なんて美白な更科蕎麦なのだ。こんな古い民家には、やはり蕎麦が似合う。よし、さっそく啜ろう。
さっきの旦那の様に勢いよく蕎麦を高く持ち上げ、一気に啜り上げた。くぅぅぅぅっ、喉ごしががたまらない! よく冷えた蕎麦はツルツルと喉を癒し、さらにはHPを全回復させてくれるようだ。
「あぁ、生き返る……」
蕎麦を啜りながら、目の前に広がる縁側の光景。蕎麦湯を飲みながら浸っていると、老婦が声をかけてきた。
「ここ、だいぶ古いでしょう? 相当ガタがきてるのよね、アハハ!」
よく老舗大衆酒場で女将さんや店主が言いそうな文句だったが、そんな古さのレベルではない。いままで色々な古い酒場で飲ってきたが、ダントツの古さだ。こんなところに、老婦は一人で住んでいるのだろうか……? そういえば、土間にあった〝立入禁止〟の立札も気になる。
「ここは二階もあるんですか?」
「二階どころか、四階まであるよ。珍しがって行きたがるお客様は多いね」
「四階も!? でも、何で立入禁止なんですか?」……ハッ!!
もしや、この上はこの異世界から現実世界への〝出口〟があるのでは……? いや、きっとそうに違いない。一階ごとに化物が棲んでいて、それを倒しながら四階まで上がると、ついに異世界から出られる扉が開かれ……
「昔の家だからね、特に子供さんとかが窓から落ちたら危ないじゃない?」
……とにかく、出口ではないようだ。
「ごちそうさまでした」
「今日は暑いから、気を付けて遊んで行ってね」
私は老婦に手を振り、まるで最後の別れのように民家を後にした。
相変わらず、外に人の気配はない。さっきより一層強くなった日差しを浴び、私の異世界放浪がまた始まるのであった──
──と、私の〝妄想〟はここまである。
何を隠そう、ここは川崎の生田緑地に併設された野外博物館『日本民家園』なのである。野外博物館が大好きな私は、予てよりここへ訪れたかったのだ。
宿場、各地域の村などをコンセプトに五つのエリアで構成されており、園内は重要文化財が山盛りだ。私のような古民家好きにとっては、最高のエンターテイメント施設である。
しかも、前述した古民家ひとつ『そば処 白川郷』では、ビールや日本酒が飲めるのうれしい。町の老舗大衆酒場では物足りなくなった酒場マニアたちに、是非ともこのリアル古民家で一杯飲ってみることをおすすめしたい。
あと〝異世界ごっこ〟も忘れずに……
白川郷(しらかわごう)
住所: | 神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-1 |
---|---|
TEL: | 044-932-7747 |
営業時間: | 11:00~15:00 |
定休日: | 日本民家園の閉園日 |