
英語にできない日本の粋、極上鍋に浮かべた〝シブい〟夜/森下「みの家 本店」
以前、英語が達者な友達に日本語で言うところの〝シブい〟を英語に訳したらなんていうのかを聞いたことがある。友達は悩んだ挙句、似たような意味合いがあれど、その完全な答えは〝ない〟だった。たしかに、具体的に「どういう状態のことか?」と説明になれば難しい。老舗の酒場ではよく使う〝シブい〟という表現は、我々酒場フリークからしたらスッとその情景が浮かび、肯定的な意味でしかないが、説明によってはマイナスなイメージにもなり得る。不潔だったり、建物が壊れていたり、それは単に〝ボロい〟だけとも受け止められかねないのだ。
少し前、私の住む築40年という老舗の部屋の中から、「ポタッ、ポタッ……」という謎の〝怪音〟が聞こえるようになった。部屋中調べても音のありかが分からず……それからしばらくすると、水道局から「水道代がいつもの三倍に跳ね上がっている」と電話があった。調べてもらうと、風呂場の内側にある水道管が破れていて、水漏れが起こっていた。
工事業者から見せてもらった見せてもらった水道管は、ただた汚かった。そう、これに関しては〝シブい〟ではなく、完全なる〝ボロい〟に該当する。
そんな〝シブい〟を日々求めているのだが、先日、私の〝憧れだった〟と言えるシブい酒場へ訪れることになった。場所は、東京下町『森下』。この場所と聞いて「ピン」と来た方も多いだろう。
地下鉄駅から地上に上がり、歩いて数分。東京三大煮込みのひとつでも有名な『山利喜 本館』の道を挟んで数軒隣にある『みの家 本店』である。
太田和彦師匠なら「おお、しつらえがいいなぁ……」とでも仰るだろう、見事な外観。昔ながらの看板建築に〝みの家〟と立体的に浮き上がった銅の看板がたまりません。
〝桜なべ〟という料理名を商標登録するなんて、なかなかあることじゃない。それくらい年月を揺らしてきたであろうあずき色の暖簾を、ドキドキしながら割った。
おお……おお……! これは、なんたる光景だ……! 店内は置屋風の意匠を凝らした大空間で、確実に令和の時代から逸脱した様相。
下足番の方に靴を預け、代わりに木札を頂く。踏みしめるようにして、土間、式台と上がっていく。入れ込み座敷に、ほぼ口開けにもかかわらず、ちらほらと既にやんごとない(高貴な)旦那衆やマダムらが飲みの場を楽しんでいる。
広間の端には、赤いカーペットのくれ縁(くれえん)をお店のお姐さまたちがかいがいしく料理を運ぶ光景。
うすはり硝子の戸窓の先にはなんとも立派な中庭も見えている。すげえ……私、これからこんなステキな場所で酒を飲めるのか。
テーブルに腰を下ろし、まずはビールでクイっと喉を慣らしたあと、さっそく馬肉だ。そう、ここはなにより馬肉の店なのだ。
華麗に『肉さし』がやってきた。もちろん馬肉の刺身で、身の中心に向かうごとに紅くなり、とにかく肉肌が美しい。
ヒンヤリとした舌ざわり、ネットリと絡みつくような食感。極上の魚の刺身のそれとはまた別格の旨さである。
「失礼します」とお姐さまが鍋を持ってやってきた。本日最大のイベントの準備が始まった。
鍋はステンレス製のロングテーブルと一体化した、ガスコンロの上にコトンと置かれた。鍋の中には濃い色の出汁が張ってあり、温まるのを待っている。
温まる前にもう一品、『馬肉たたき』がやってきた。馬肉はよく食べるが、たたきとなると案外食べたことがない。見た目はフレンチっぽく、この店ととのコントラストがいい。
やはり、旨い! ほんのり表面に火の入ったステーキ的食感と、甘辛いタレとの相性が抜群にいい。ここはワイン……いや、日本酒と合わせようか。悩みどころだ。
鍋が沸々と熱したタイミングで、お姐さまが再び登場。そして、主役の大皿の出番がやってきた……!
どうですか?と言わんばかりに、堂々たる馬肉。ビッシリと並んだ馬肉の上には、脂身とコッテリとした見た目のタレ。いやもう、このまま食べたい。
お姐さまが、手際よく菜箸で肉、長ネギ、しらたき、麩などを綺麗に沈めていく。あとは、仕上がりを待つのみ。これほど待ち遠しいと思ったことはない。
その思いを一旦落ち着かせるかの如く『玉子焼き』がカットイン。ここに来てはじめての馬肉離れに少々とまどいながらも、猫の座布団ほどある巨大さにに圧倒される。
旨い! ファッファッな食感と甘すぎず、辛すぎず、永世中立の味わい。朝食、昼食、酒のつまみ……どの場面で出されても間違いない逸品。
大きな歓声と拍手が巻き起こった──気がした。それは誠か、遂に『桜なべ』が仕上がったのである。黄金の鍋にグツグツと醤油色の出汁が沸き、馬肉をはじめとする具材たちがその色を染み込ませ、今か今かと湯上りの時を待っている。
なんて、神々しい……『天下一品』のアンバサダーであるLUNAS SEAのSUGIZO師匠が、ラーメンを食べる前に手を合わせるが、まさにそんな状態だ。
目の前には小碗に、発色の良い生卵。こいつを軽めに溶いて、すき焼きのようにいただくのだ。──さあ、時は来た。
ウッ・マッ・イ──ッ! 旨すぎて呼吸を忘れる。馬肉は柔らかく、とろけるような旨味と上品な甘さ、辛みの出汁が口中でシンデレラフィット。
長ネギのシャクシャク感、出汁をしっかりと吸わせたしらたきと麩。煮込む手順と時間が完璧だからこそ、この鍋が最大限においしくなっているのが分かる。こんな例えはどうかと思うが……子供の頃、新発売だった『スパ王』を食べたときくらいに、食べ物で衝撃を受けた。
私の部屋の水道管のように、この店からは〝シブい〟が止めどなく溢れ出している。そしてその想いは、水道代の如く三倍にも四倍にもなる。
冒頭にもあったが、一時期、酒場の記事の英訳版も同時公開しようと試みて見事に頓挫した。ただ、今なら分かる。こんな〝シブい〟酒場を英訳なんて出来るわけない。そもそも、シブいはおろか〝しらたき〟すら訳せないのだ。
桜なべ みの家 本店(みのや)
住所: | 東京都江東区森下2-19-9 |
---|---|
TEL: | 03-3631-8298 |
営業時間: | 月・水・木・金・土 12:00 - 14:00 16:30 - 21:00 日・祝日 12:00 - 20:30 |
定休日: | 火 |