奈良「いづみ」おとなの修学旅行 告白編
東日本出身の人間であれば、中学高校の修学旅行が奈良、京都だったのが多いと思うが、秋田県出身の私はもれなくその一人で、高校の修学旅行で奈良と京都を初めて訪れた。
2018年に〝金農旋風〟で日本中を席捲した『金足農業高校』出身なのだが、私が在学していた当時は、いわゆるやんちゃそのものの高校であった。
特に私のクラスはやんちゃであり、朝の出欠確認に全員が集まったのは入学式初日のみ、卒業した生徒もクラスの3分の2、学期末テストは「このプリントの中から出題する」と教師に言われ、いざ試験を受けるとそのまんまのプリントが出されたが、それでもクラスの大半が赤点、教室のオイルヒーターを爆発させたり、家畜の豚を殴って退学になったり……と、いうのはすべてデタラメで、冗談ジョークの話に過ぎないのである。
【仮に】そんなやんちゃな高校が、修学旅行で奈良や京都に行こうもんなら、地元のやんちゃ学生らとの喧嘩はもちろん、宿泊ホテルからのクレームで、その後何年間も『出入り禁止』になりかねない。
──とまあ、学生時代の懐かしい妄想をしながら、私と酒場ナビメンバーのイカは近鉄奈良線の電車に揺られていた。
『近鉄奈良駅』
行きついたのは、およそ20年ぶりの奈良の街並み。件の修学旅行で『興福寺』の五重塔へ行った記憶が蘇ったが、それ以上に印象的だったのが『関西弁』である。高校生だった私は、土産屋が並ぶ通りで「お兄ちゃん、買うてって!」と初めて聞いた生の関西弁に、「この人ら全員、お笑い芸人だべが!?」と驚きと恐怖心を覚えたものだ。
『ひがしむき商店街』
「この筋を曲がったとこにな、えぇ感じの店あるらしいでぇ!」
修学旅行以来、次に聞いた関西弁は奇しくもイカからであった。すでに関西弁慣れしている現在の私からすると、彼は〝下品な方の関西弁〟であることが分かるのは、だいぶ進歩したのだと思う。
「あったでぇ! ここやここや!」
『いづみ』
瓦屋根を冠った趣のある佇まいには、ぼんやりと白熱電球の光が灯り、軒先には〝ここが酒場である〟と知らしめる手描提灯が、なんとも古都らしい酒場を演出している。
〝鮑腸汁〟……?
提灯には読み方すら分からない『汁』が記されている。初めての奈良酒場、様々な期待を胸に暖簾を滑らせる。
「いらっしゃいませ」
という、女将さんの声のあとは〝シン……〟という文字さえ見えそうなほどの静寂な店内。決してそれは〝活気がない〟という意味ではなく、『厳か』という言葉が一番近く……まるでそう、『東大寺』や『法隆寺』の本堂にでもいるかのような〝神聖〟な気持ちにさえさせるのだ。
店の奥にあった、なんとも味わい深い無垢一枚板テーブルにひとめ惚れ、一瞬にしてそこを酒座に決めた。「このテーブル、本当に欲しい……」と指をくわえながら、まずは酒を注文。
『焼酎炭酸割り』
関西酒場では〝チュウハイ〟という言葉が通用しない酒場が多く、ここもそのひとつだったのでここでは『焼酎炭酸割り』としていただく。《酒ゴング》を済ませ、飾られた紙札メニューを見ていると……
〝グレの煮付〟
なにっ!? グレだって!?
おそらく普通の読者はなんのことか分からないと思うが、〝釣りキチ〟ならすぐに私の驚嘆を共感してくれるはず。『グレ』という魚は、一般の酒場や食卓ではまずお目に掛かれない珍しい高級魚で、その〝引き〟の強さから釣りのターゲットとしても大人気であり、全国各地でグレの釣り大会も多く行われている。酒場メニューで初めてグレを見た私は、即座に女将さんへ注文した。
「おい味論、グレってなんや?」
「知らないだろうなぁ。グレってのは〝黒鯛〟のことだよ、ね、女将さん?」
魚には、大きくは東日本と西日本で呼び名が変わるものが多く、グレもそのひとつで関東では『黒鯛』、関西では『グレ』と呼び……
「いや、グレは黒鯛と違うよ」
「……え?」
女将さんに同意を求めるや否や、『グレは黒鯛ではない』という返事があったのだ。
ち、ちょっと……何を言っているんだ女将さん、関西ではグレ、関東では黒鯛と呼ぶのが常識中の常識でしょ? 今でこそあまり釣りに行くことはなくなったが、私がどれだけ釣りに嵌っていたと思うんだ? ……という表情をしたが、女将さんはそのまま奥の調理場に入って行った。
「おい味論、いま黒鯛ちゃうって言ってへんかったか?」
「いやいや、きっと女将さんが勘違いしてるんだよ」
「そうなん?」
「そうだって! ……疑ってるのかよ?」
「いや、そういうわけちゃうけど……」
多少、感情的にはなってしまったが、しばらくすると甘じょっぱい香りと共に、グレ……いや、黒鯛の煮付けが登場した。
『グレ(黒鯛)』
この顔つき、グレって可愛い顔をしてるんだよな~! 先ほどはちょっとグレた態度をしてしまったが、このグレへの仕事は素晴らしいの一言に尽きる。上品な旨汁がグレのカブト全体にしっかりと染み渡り、脳天、ほほ、かま……各部において完璧な仕上がり。なにより嬉しいのは、〝本当においしいグレの煮付け〟としてカブトを出してくれたことだ。なんだよ~、しっかりグレのことを分かってるじゃないか~!
「グレってめっちゃうまいやん!!」
「だろ? そもそもグレという魚はだな……」
初めての酒場でウマい料理に当たった時ほど、次の注文が楽しみなことはない。グレの蘊蓄話は手短にして、次に軒先の提灯にあった『鮑腸汁』を注文してみると……
「はいは~い、これが鮑腸汁の麺やで~!」
「えっ!? ほうちょうじるの麺!?」
突然、店の奥から麺をこねくり回すマスターが、まるで蛇を操る〝蛇使い〟の様に登場したのだ。
『ピノキオ』に登場する〝ゼペットじいさん〟にそっくりなマスターは、麺を伸ばしては束ね、伸ばしては束ねの手延べを繰り返し、あっという間にピノキオを完成させた。因みに『鮑腸汁』の由来は、汁に入った麺を鮑の腸の様に見立てたものからだという。
そして、ゼペットさんが戻った厨房からは、味噌のいい香りが立ち籠めてくるのだ。
『鮑腸汁』
白味噌の素朴で上品な椀からリフトアップするのは、先ほど延ばしたばかりの鮑腸麺。さらにリフトアップ……
リフトアップ……
リフトア……いや、ちょっと待て、
長────────────────いッ!!
麺を切り忘れたのかと思うほどの麺の長さ。しかし、絶妙な麺の太さと縮れ具合が白味噌とよく絡み合い、啜るほど〝ウマい、もっと啜りたい!〟と思わせるのは、この麺の長さが道理にかなっていると言える。
ひと啜りで口いっぱい。ああ……高校生の頃の私にも、こんな料理を教えてあげたい──
「おおきに~、またどうぞ」
〝なんていい大人の修学旅行だ!〟
楽しくておいしい時間は、この鮑腸麺の様に長く続くものではなく、気づけば閉店時間。
おちつく店内、優しいマスター、粋な料理──
狼藉たる高校生の頃の思い出も良かったが、それをいい意味で塗り替えることが出来たことに大満足をしながら、初めての奈良酒場を後にするのだった。
「いやぁイカさん、鮑腸汁うまかったね」
「せやな、でもワイはグレがホンマにお気に入りや」
「……そっか、じゃあ東京に帰ったら、グレを出してくれる店を探そうか」
初めての奈良酒場に唯一、心残りがあるとすれば、
グレは黒鯛ではなく『メジナ』という魚のことであり、それを店から出る瞬間に思い出したが、
未だ、イカと女将さんに伝えていないことだ。
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いづみ(いづみ)
住所: | 奈良県奈良市元林院町10 |
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TEL: | 0742-22-7255 |
営業時間: | 17:30~22:00 |
定休日: | 日曜日 |