新宿「鼎」センベロよりもマンベロがしたい
普段から〝下町〟や〝大衆〟要素の多い酒場へばかり行っていると、時々ふと、『お高め』な酒場へ足を運びたくなる。
薄暗い照明にムードのある空間──いつもは蛍光灯が切れているか裸電球だから薄暗い。
確かな接客にラグジュアリーな気分──いつもは女将さんのツンデレに一喜一憂するばかり。
落ち着いた雰囲気の中でゆるり日本酒を嗜む──いつもは店先から聴こえる騒がしい工事機材の音、ベタベタのカウンターで酎ハイ。
本当の〝安くていい店〟を求めるならば、〝高くていい店〟を知っておかなければならない。たまにはそんな夜を作るのが美酒探求の醍醐味ではないだろうか。
そうとなれば、『お高め』な酒場へ向かうのみだ。銀座や六本木なんてのは論外として、あくまで『お高〝め〟』がいいのだ。
──ひとつだけ、思い当たる酒場が思い浮かんだ。
『鼎(かなえ)』
新宿三丁目駅を出て明治通りの小道を入ってすぐにある老舗酒場だ。ずっと前からその存在を知っていたが、なかなか足が向かなかった。その理由はもちろん『お高め』だからという一択。
地下へと入る入口には、杉玉と一緒に〝鼎〟と書かれた立派な看板が掛かる。そこからさらに下ると、まるで秘密の洞窟へと続くような古ぼけたドアが半分開いており「どうぞ、こちらへ」と出迎えている。さぁ、洞窟探検のはじまりだ。
「いらっしゃいませ」
その秘密の洞窟の中は、外界からの光と音を遮り、点在する灯火がぼんやりと照らしている。「ご予約ですか?」と、品の良い格好をした店員さんが訊ねる。〝予約かどうか〟を訊かれる酒場など久しぶりだ。
予約ではないことを伝えると、奥の広いテーブル席のひとつへ案内される。高い天井、角の丸くなったテーブルや梁──さすが老舗だという貫禄と品が其処彼処とうかがえる。ここで酒が飲めるのかと思うと、楽しみで仕方がない。
「ご注文は、いかがなさいますか?」
おっと、店内に見とれていて酒を選ぶのを忘れていた。あたふたとメニューを広げようとすると、横の壁に日本酒らしき名前のメニューが貼られていたので咄嗟に、
「こ、これで!」
「天穏ですね、かしこまりました」
まともに値段を見ず、日本酒を注文した。
しかし……
エッ!? せんごじゅうえん!?
『天穏』
1,050円って……普段晩酌で飲んでいる甲類の焼酎4リットルが1,600円なので、とんでもない贅沢をしてしまったことになるが、これがンまいッ、本当にンまい酒なのだ!! 微発泡のうす濁りの酒で、嫌みのない甘味、それを微発泡と絶妙に合った爽快なキレで飲ませるのだ。永らく、日本酒では新潟の『越の寒中梅』が大のお気に入りであったが、ここにきて順位が変わってしまった。それが店で1,050円なら安く感じる。
よし、酒がウマいと料理への期待がいっそう膨らむ。今度は、慎重に値段をみながら料理を注文した。
『大粒生かき』
これが一粒880円の生牡蠣、か……。先日、ある酒場の3つで750円の生牡蠣を食べたばかりだったので、これもかなり思い切った一品。
見るからに新鮮で、プリップリの牡蠣をジュルリと頬張る──例えるなら、映画『タンポポ』のワンシーンにある『役所広司』が海女の少女の手から牡蠣をムシャブリ吸うが如く頬張った。ウマいっ!! 肉厚の身から爽やかな磯の風味が口中……いや、体中を包むようだ。一瞬だけ、ここが大都会新宿ではなく、田舎の漁村であると錯覚させる。
『海鮮コロッケ』
店員さんに「間違ってゼロをひとつ多く値段書いてますよ~(笑)」と、思わず口から出かけたが、紛れもなく1,100円のコロッケがここに存在していた。コロッケ3つで1,100円ということは、ひとつ360円……? ちょっとまて、ひとつ200円のコロッケでさえ私は食べたことがない。震える箸先で300円を……いや、コロッケを口へ運ぶ。カリッ……!! 心地よい音が口から漏れると……海だ、海がこのコロッケの中にはあった。
クリームと共に、魚介のベストメンバーがその海で優雅に泳いでいたのだ。これもウマい、完璧なバランスの味わいである……え、ソースをかけないのかって? このコロッケを前に、それはただの海洋汚染でしかないのだ。
うーむ、さすがにどれもウマい。日本酒、生牡蠣、コロッケ……これならこの値段でも納得だ。しかしここにきて、どんでもない値段を発見してしまった。
それが『なめろう』だ。漁師料理のあの素朴な『なめろう』の値段が、
1,430円。
こればかりは本当に目を疑う値段だった。たまに700円くらいする『なめろう』もあるが、それを注文することはまず無い、それの2倍以上の値段なのだ。しかし……だがしかし、ここは『鼎』だ。幾度となく私の舌を愉しませてくれたここの『なめろう』ならば──。よしわかった、試してみようじゃないか!!
『鯵のなめろう』
来ちゃったよ……これが、1,430円の『なめろう』か。身を削いだ骨が付くことはよくあるが、うずらの卵が付いてくるのは初めてだ。『なめろう』ごときに神々しささえ感じながらも、ここはもちろん酒場ナビ的『黄身の儀式』をするしかない。
まずは1,430円の上にうずら卵の黄身をトン、
プツッと箸先でいやらしく割り、
そして、
こねくり回す……!!
どうだ1,430円、貧乏人に辱められる気分は? ……と、ここらへんでアホらしくなったので、いざ食してみると──やっぱり……やっぱり、ウマいなぁ……!! おそらく包丁での〝たたき方〟が違うのだろう、〝ンねっとり感〟が、そこらの『なめろう』とはまるで違う。箸で口へ入れて箸だけを引き抜く、すると濃い味の『なめろう』が舌を包み込むようにまとわるのだ。それは昔なつかし、割箸の『水あめ』を彷彿とさせる。この極上ねっとりが、また高い日本酒と合うから困る。
もっと、もっと食したい……!!
色々な意味でさすが『お高め』、味においては何も言うことはない。他に刺身の盛り合わせ、揚げ物、日本酒……こうなれば全部の料理が気になる。だが、ほろ酔いの頭でも、さっきから〝これは、いったな〟という懐事情が気になってしょうがない。そういえば、チャージ料もかかったはず……これはいつも行くセンベロ立ち飲み屋の4、5軒分は〝いった〟かもしれない。
それでも呑みたい私は、酒を注文しては財布の千円札の枚数を数えながら必死で食らいついていた。すると──
「刺身五種盛り(3,960円)を3つね」
「あと、弥右衛門(945円)を熱燗で2つと……」
隣にいた〝絶対に金を持ってる〟という風貌の紳士数名が、酒と料理をなんの躊躇いもなく注文している。おそらく同窓会などの酒宴だろうか、数万……いやいや、そのペースだと間違いなく十万円台になるのだろう。もはや羨ましいというより〝恐怖〟である。果たして、私には『センベロ』ではなく、この紳士たちのような『マンベロ』をできる日が来るのだろうか……
「ありがとうございました」
私の会計は、辛うじて『マンベロ』にはならなかったが、いやはや酒場修行にはやはり金がかかる。
がんばって来年あたり、また来よう……いや、また来れたらいいな、と財布の中身を空にして店を後にしたのだ。
さぁて……ATMに寄って、次は酎ハイ一杯250円の立ち飲み屋にでも行きますか。
鼎(かなえ)
住所: | 東京都新宿区新宿3-12-12 B1F |
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TEL: | 050-5868-0348 |
営業時間: | 17:00~翌0:00 日・祝 16:30~23:00 |
定休日: | 無休 |