吉祥寺「闇太郎」憧れの冬酒場で逢いましょう
──冬が待ち遠しい。
うんざりするほど暑かった今年の夏を経験すれば、そう思う人も少なくないと思うが、私が冬を待ちわびる理由はひとつ、酒場である。
『冬酒場』、特に古い大衆酒場なんかは冬の冷たい空気が似合う。
宵闇に舞う雪、北風に揺れる赤提灯と暖簾、換気口からはモクモクと湯気が立ち上る。ガタガタと音を立てて引く木製の引き戸は隙間風がひどく、店の中でも座る席によっては外で飲んでるのと変わらない。その寒さを紛らわせるためには、熱燗をおでんで飲るしかない──私の故郷、秋田の冬酒場を思い出す。いいねぇ……深雪の静けさの中、落ち着きがある酒場でゆっくりと酒を嗜む……
「冬酒場の練習しに行こかっ!!」
浪花節のBGMと共に響く濁声……想いに浸る東北人の繊細な鼓膜を、下品に震わせやがる。その声の主は、酒場ナビメンバーのイカだ。『西宮』という瀬戸内の割と温暖な気候で育ったこの男もまた、冬酒場を愛するひとり。そんな彼とは、毎年のように関西の冬酒場を回っているが「東京にめっちゃええ冬酒場があるんや!」というので、だいぶ涼しくなったある日の夜、『吉祥寺』へと訪れたのだ。
『闇太郎』
川上弘美の小説『センセイの鞄』の舞台ともなり、前から存在は知っていたが開店時間が19時半と遅く、そこへたどり着くまでに他の店で泥酔してしまい、なかなか伺う機会がなかったのだ。開店時間は遅いが夜中の2時までやっているという、まさに〝闇〟という店名が相応しい酒場だ。
今夜も〝闇〟のように肌の色が黒いイカ太郎が《暖簾引き》をして、いざ冬酒場へと足を踏み入れる。
──ガラガラ
「いらっしゃい」
右手にコの字カウンターのみのこじんまりとした店内。中にはねじり鉢巻ををした鯔背なマスターがひとり。煤けた壁には手書きのメニュー並び、テレビからはバラエティ番組の音が静かに流れ、それらを裸電球の光が包む何ともいえない空間を形成していた。
〝これは、イイ……!〟
お互いの顔を見るともなしに、私とイカ太郎は心で頷くとコの字カウンターの特等席、丁度くの字に曲がった〝角席〟に酒座を決めた。他に客はおらず、これはなんとも都合がいい──
〝今からここは、冬酒場や!〟
他の客の目を気にすることなく、大いに冬酒場の練習をしようじゃないか……!!
時は1月中旬。明日は土曜日で、週末の楽しみといえばやはり酒場で飲ることだ……という〝設定〟が始まった。
『酎ハイ』
「おぉ、寒かったぁ~」と言いながら店に入り、暖房で温まった店内と冬の外気との差に急激に喉が渇く。ここはあえて酎ハイを注文。霜模様のグラスにキリっと冷えたタンサンが、寒さに疲れた体に心地よい。さぁ、次はおいしい冬料理だ。
『しめ鯖』
一年を通して、特にウマいとされる〝寒さば〟は冬に出回る。すなわち、しめ鯖は1月の今が至高。そしてこの豪快なキッツケはどうだ、箸で持つとズシリと重く、強めに効いた酢に弾力のある身が口の中をモグモグといつまでも愉しませてくれる。ちなみに本当の1月は、これに脂がたっぷり乗る。
──グツグツ
目の前には、おでん槽。ホカホカの甘い出汁の香りが鼻腔を通って舌をつつく。「たまごに大根……おっと、はんぺんも忘れずに……」。槽の中で仲良く泳ぐタネたちを、マスターがお玉杓子で転がしているのを見ているだけでも酒が進む。ここで左手にある酒を、おでん用の酒に持ち替える。
「ツイー……」
おでん用の酒は神戸の銘酒『剣菱』の熱燗。コイツなくして冬酒場を語るわけにはいかない。「ワイの地元の酒や!」と〝闇〟のように肌の色が黒いイカ太郎が自慢げだ。
「はい、おでんお待たせ」
『おでん』
はんぺん、たまご、厚揚げ、大根が深さ按配の丁度いい平皿で出汁に浸り、ついに冬酒場の主役が登場だ。はんぺんは色のあるところ、ないところで味を愉しみ、たまごもそれ然り。厚揚げは皮の厚い分カラシをタップリ付け、鼻にツンとくるなら酒で流す、大根は箸で必ず四等分に割り、少しぬるくなったのをチビチビとつまむのがいい。
──ガラガラ
「いらっしゃい」
熱燗とおでんのおかげで、心も体も温まりつつある中、おもむろに古い木製の引き戸が鳴ると、外から新しい客と共にひんやりした風が流れてくる──と、まるでそんな冬の気配さえ感じさせるようだ……いや、もう外は冬になっているのかもしれない。
「……なんやで」
「へー」
「……らしいで」
「そうなんだ」
横には〝闇〟のように肌の色が黒いオジサンが流暢に冬酒場を語り、目の前にはおでん槽、暖かみのある電球が店内を照らす。
練習とはいえ、そこには来るべく憧れの『冬酒場』があった。
「これ、よかったら」
『りんご』
ふいにマスターがカウンターに乗せた、これまた冬が旬のりんごのサービス。これにて冬酒場の練習は終了。あとは冬を待つだけである。
店を出ると、しんしんと積もる雪化粧……とはなっていなかったが、9月の少しひんやりとした秋風が吹き、今いた酒場はその風と共にひっそりと〝闇〟に紛れるのだ。
もうすぐ本番、さて、準備は整った。
──冬が待ち遠しい。
闇太郎(やみたろう)
住所: | 東京都武蔵野市吉祥寺東町1-18-18 |
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TEL: | 0422-21-1797 |
営業時間: | 19:30~翌2:00 |
定休日: | 日曜日 |