高尾山「やまびこ茶屋」東京で天国にいちばん近い酒場
花の名峰『高尾山』といえば都心からのアクセスも良く、気軽に登山が愉しめるので一般登山客以外にも家族やカップルなどに人気の観光スポットだ。私が住むところからも一時間弱で行くことができるので、昔からよく遊びに行っていた──というわけではない。二十年ほど前に初めて行ってみたのだが、そこで少しだけ〝奇妙な体験〟をして以来、足が向かなかったのだ。実は母親方からの遺伝で〝霊感〟なるものを受け継いでおり、その初めての高尾山へ行った際にもその霊感が発動してしまったのだ。
高尾山の頂上まで少しというところに、舗装されていない山道を登っていた時のこと。ある地点で突然、視界全体が白い靄に包まれた。山だからそんなことくらいあるだろうと思ったが、「何か変だな……」と思いつつ、ふと辺りを見渡すと、自分以外には誰も居なくなっていたのだ。さっきまでは、数人の登山客が居たのに……私は足を止めた──いや、足が動かなくなってしまったのだ。じわりと冷汗が滲み、〝どうしても先に進みたくない〟という恐怖心の様なものに襲われ、その場で固まってしまった。森のいたるところから、〝人外〟の視線を投げられている気がしてならない。ここまでは耐えられたが、次の瞬間──
「音が、無い」
動物や風など、私が立つ場所には音そのものが無いことに気が付いたのだ。〝これはヤバイ〟と直感し、結局は頂上を前にして逃げるように引き返したのだった。
それから高尾山に行くことはなく、約二十年という月日が経ったのだが、それが最近になって高尾山にアタックしてみようと思ったのだ。今更なぜかって……そこに〝行きたい酒場があるから〟だ。
〝酒は愁いを掃う玉箒〟というように、一番恐ろしいのは酒を欲する行動力なのかもしれない。
『高尾山口』
昨今のアウトドアブームもあってか、平日の朝九時にも拘わらず、年配者をはじめとした登山客が大勢集まっていた。今はどこのキャンプ場も予約が取れないほどのアウトドア人気だと訊くが、これは思っていた以上の賑わいだ。まずは、ケーブルカーで中継地点の『高尾山駅』まで登ることにした。
高尾山駅に到着したら、ここからが登山本番。目的の酒場を目指して、いざ、参らん。
はじめのうちは参道に売店が並び、見ても楽しい道のりだが……
次第に急斜面の階段が続き……
山寺をいくつか越えて、しばらくすると……
確か、ここ辺り……謎の靄があった場所だ……
ドキドキ……
──何も、起こらないっ!!
久しぶり過ぎて、靄に忘れられてしまったのか……ムクドリの可愛らしい鳴き声、枯草を揺らす風の音もしっかりと聴こえる。「とにかく、良かった」と胸を撫でおろして、残すは山頂に向かうのみだ。
『高尾山頂』
無事に到着。はじめて立つ頂上は、思いのほか雄大で達成感もあった。ここには、大馬鹿野郎のウイルスもいないんじゃないかってくらいに空気が澄んでいて、久しぶりに肺の奥から深呼吸をした。景色を見るのも足早に、次は酒を喉の奥へ吸い込む番だ。
『やまびこ茶屋』
出たっ! ここですよ、ここ。山風に晒された暖簾がいい渋みを出しているねぇ。ペンキの剥げた看板に色褪せたテント屋根。さらにここが標高約600mだと思うと、その壮観さにため息が出る。
以前、秋田と盛岡の県境にある『峠の茶屋』というところに行ったが、大自然の中にひっそりと佇む茶屋というのは、どこかゾクゾクと神秘的である。早速、武者震いをしながら暖簾を割った。
うおっ……
んがっ……
ク──ッ!! めちゃめちゃいい店内じゃないか! 茶屋だけでもテンションが上がるのに、〝大箱〟ときたもんだ。どうしようどうしよう、どこで飲ろうかしらん。
やっぱ外飲り席でしょう! この場所自体が崖に突き出していて、そのスリリングがまたいい。
酒は店内にある冷蔵庫から自分で取り出し、窓口で代金を払う角打チングスタイル。窓口にいるマスターに瓶ビールを渡すと、「ポンッ」と栓を抜いて差し戻してくれた。受け取った瞬間に解る〝今飲んだら絶対にウマい〟感。よし、酒座へ急げ!
『瓶ビール』
青チェック柄のビニールクロスが長閑やかですねぇ。山頂の景色と酒ゴングを交わし、それでは頂きます。
クイ……クイ……冷テ……ウんメぇ!! 気圧が低いせいか、膨張した胃にストンと落ちる麦汁が気持ちいい。ここの店の名前を借りて、ヤッホーな気分になったところで、次はアテだ。
料理は代金引換の食券制で、窓口で食券を貰ったら酒座で待つのみ。
「お待たせしました」
おぉっ!! お盆に乗った山頂セットの登場だ。私はウッシッシと箸をパチリと割った。
『焼鳥(タレ)』
三本のモモ肉には、タップリのタレが惜しげなく覆っている。スッと一本持ち上げると、香ばしい香りがプワンと漂い、堪らずズズッと咥え込む。ムッチリと食べ応えのあるモモ肉に、甘くてしょっぱいタレがネットリと絡んでオイヒー。
『味噌田楽』
ぷるん、とぅるん──ほんのりと温もりがあるコンニャクに、甘味噌が一筋ヌリリ。この甘味噌、澄ました顔して、中々どうしてウマい。さり気ない味噌のコクが、淡泊なコンニャクを名・田楽として演出する。田楽をウマいと思ったのは、これがはじめてかもしれない。
『おでん』
そもそも、おでんなんてものは野外で食うのが一番ウマいのだ。さつまあげ、ハンペン、ちくわ、昆布、コンニャク……湯気モワのところをホッホッとして口に含み、アチアチと頬張って、ビールでキューッと流し込む。うんめぇに決まっている。やはりおでんは野外、それも山頂の茶屋で飲るのが正解なんだよ。
ピ──、ヒョロロロロ……
ヒョロロロロ……
(あそこは町田あたりか?)
(あっちは……相模湖か)
トビの鳴き声をBGMに、遠くに見える街の景色でのんびりと飲る。まさにこれが山時間、これが茶屋飲りだ。なんちゅう、天国な酒場なのだろうか。ずっと来ることのなかった高尾山……いや、どこか避けていた高尾山とは一体何だったのか。
そもそも、二十年前にあの山道で出くわした靄は何だったのか。もしかすると、今回その靄が晴れていたということは、きっと、この大馬鹿野郎のウイルスの靄も晴れると暗示しているではないかと、勝手に良い方へ解釈してみる。
〝我ニモ、サケ、クレヨ〟
凶年に高尾山へ酒を飲みに来たことには、何か意味があったのだろう──中瓶をもう一本、冷蔵庫から取り出し、隣に居る靄の人外へ酌をした。
つまるところ、これからはこの天国な酒場に、何度でも来たいということだ。
やまびこ茶屋(やまびこちゃや)
住所: | 東京都八王子市高尾町2176 |
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TEL: | 042-661-3881 |
営業時間: | 10:00~15:00 |
定休日: | 不定休 |