天文館通「どさんこ おにぎり」はじめての鹿児島酒場入門(2)
『夫は自分で靴下を履くことがなく、裸足をどんと出せば、妻はそれに靴下を履かせてやる』
『男が台所を覗くなどもってのほか。洗い終わった衣類を男女一緒に干すことも許されない』
これは鹿児島県民について書かれたあるエッセイの一節なのだが、はじめてこの文章を見たとき、にわかには信じられず、もう一度最初から声を出して読み上げたほどだ。驚きはしたが、現代社会でこんなに分かりやすい〝男尊女卑〟など通用するわけもなく、少なくとも昭和以前までの話だろうが、なんとも興味深い。鹿児島女性、本当のところはどんな感じなのだろうか……。ちなみに私の地元秋田にいる母親は、いまだ父親の靴下を脱がしてやるという世話好き秋田女性だ。
──夜7時。
南国の夜風に吹かれながら鹿児島の盛り場、天文館を散策していた。通りの喧騒から少し抜けると、煌々と輝く翠緑の光が見えた。
『どさんこ おにぎり』
はて……これは一体どういうことだ?〝どさんこ〟といえば、鹿児島の正反対にある北海道の代名詞。緑色のテント看板には北海道の形をしたロゴまである。
店先の提灯には〝おでん〟などと書かれているが、おにぎりの入ったショーケースがあったり日本酒ラベルがはられたりと、ますます何の店かわからない。やはり、おにぎり屋だろうか……? とりあえず酒は出してくれそうだったので、好奇心から中へ入ってみることにした。
カラカラカラ……親戚の家の玄関扉を引いた時と同じ音。
「いらっしゃいませ」
店の中央にはコの字カウンターがあり、その奥では『御姐さん』がひとり洗い物をしていた。手書きのメニュー札、ビールサーバーにおでん槽から漂う出汁の香り……間違いない、ここは酒場だった。
カウンターに座り酒を頼もうとしたが、酒のメニューが見当たらない。気分的にビールの喉ではなかったので、『お茶割り』を注文。お茶割りという酒は、どんな地方の酒場でも必ず置いてあるから、こういう時に使い勝手がいい。
『お茶割り』
グビッグビッ……ありゃ!? これは……。口に含むと意外な味に包まれた。お茶割りは、甲類焼酎を緑茶で割ったものが一般的だが、ここの焼酎は焼酎でも『芋焼酎』を緑茶で割っていたのだ。地元民からすればこれが普通なのか、そもそもお茶割りの酒文化がないのか……。とにかく、慣れるとなんだかクセになる味わい。次に、肴だ。
『しめ鯖』
これもまた面白い一品で、酢で締めた感じは殆どなく、普通の刺身に近い。たまにこんなしめ鯖を出す酒場があるが、私はこれくらいの締まり具合が好きだ。ポン酢とレモンをキュッと絞り、もみじ、ネギと一緒に食べる。ンまい! 下手に浸かり過ぎたグズグズの酢締めより、この〝浅漬け〟の方が十倍おいしい。
──静かだな、いや、本当に。
テレビもなければラジオも流れていない。客が2人ほど居たが、軽く言葉を交わしあうくらいで、御姐さんも言葉数少ない。あながちエッセイであったように、酒場においても女性は一歩下がって、奥床しくする風潮があるのだろうか……?
なんだか、そんな鹿児島女性に声をかけてみたくなった。丁度、気になっていたことがある。
「あの、〝おば〟ってなんですか?」
「クジラです」
壁に掛かるメニュー札に、平仮名で2文字『おば』というのがずっと気になっていた。訊いてみると、クジラの尾の油身だと教えてくれた。さっそく頼もうとしたが品切れだったので次の質問をした。
「〝四万十川の海苔〟って、どんなのですか?」
「酸っぱいですよ」
奥床しい──。余計な無駄口は叩かず、〝酸っぱいもの〟ということだけを分かりやすく伝えて下さる。私が薩摩男子ならば「それ」とだけ言い、御姐さんは「はい」とだけ応えるのかもしれないが、私は恭しくそれを注文させていただいた。
『四万十川の海苔』
小洒落たグラスに、鮮やかな緑の生海苔がきれいだ。クイッと啜ると納得、御姐さんの言った通り、けっこう酸っぱい。甘酢に生海苔を浸しているのだが、これが爽やかな風味でグイグイいけてしまう。
そこへ鹿児島の甘い芋茶割りをクーッ……ンまいっ!! 四万十川といえば高知、高知といえば坂本龍馬。ここ西郷隆盛の地で、幕末の英雄2人が美味しく再会した。
──静かだな、いや、これがいい。
右の先輩が空きグラスをスッと渡し、それをスッと御姐さんが注ぎ返し、呑む。左の先輩が男らしい盛大なゲップをしようとも御姐さんはまったく動じず、何事もなかったようにおでん槽へ手間をかけている。
いいなぁ、鹿児島酒場……いや、薩摩男子がうらやましい。私も真似して、薩摩男子風に酒を飲ろうとした瞬間……
「おはようっ!」
「アラ、おはよう」
勢いよく、店の入り口からハスキーボイスの『御姐サマ』が入ってくると、御姐さんが挨拶を返した。ずいぶん威勢のいい客だなと思っていると、そのまま厨房へ入っていきエプロンを付け始めた。店員さんだったのだ。身支度を終え、カウンターの中に入ると、
「〇〇さん、来てたんねっ!!」
声が大きい。声をかけられた先輩は軽く頷き、ついでに酒のお代わりをその御姉サマに頼んだ。
「同じのでいいとねっ!?」
声が大きい。巨漢の西郷隆盛でもこんな大きな声は出なかったんじゃないだろうか。店の中は、先刻の静かさは微塵もなくなった。
「おにぎり、まだあるッスか……?」
「あるよ! どれ食べんねっ!?」
若い男性客が、恐縮して御姐サマにおにぎりを頼んだ。店先のショーケースからおにぎりを取り出し、男性客に「これでええね!?」と御姐サマが訊いた。男性客は笑顔で応えていたが、やはり少し表情は硬く見えた。
『夫は自分で靴下を履くことがなく──』
『男が台所を覗くなど──』
エッセイの一節が過ると共に、会計を終えた。
「ありがとね! また来てねっ!」
御姐サマは、ショートホープを吹かしながら見送って下さった。
おぉ……がんばるでごわすよ、現代の薩摩男子。
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どさんこ おにぎり(どさんこ おにぎり)
住所: | 鹿児島県鹿児島市船津町1-1 |
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TEL: | 099-224-4657 |