湯島「岩手屋本店」今宵もまた、最高の居心地を求めて
呑兵衛の命題ともいえる〝良い酒場〟とは何たるや。美味しい酒に、料理、それがまた安くて候。鉄火肌の女将に愛想のいい店主、横には独酌の相客。なんだか、居心地がいい──そうなのだ、結局のところ、大衆酒場に求めるものなんて〝居心地がいい〟に尽きるのである。
極端なことでいえば、料理が不味かろうが店主の気性が荒かろうが、それでも居心地が良ければ全てオッケー、オールオッケーなのだ。だって、そこに居るだけで気持ちが和むなんてことは、大衆酒場だろうと高級料亭だろうと、そうそうないことなのだ。
ただ、そんなのをまさしく絵に描いたような、酒道楽冥利に尽きる酒場が、たまーにあるんだなこれが……
湯島天満宮のおひざ元にある不忍池は、なんとも言えない下町情緒がある。どれだけ高層マンションがとりかくが、この池だけはぽっかりと空いた別の時間が流れているようだ。そんな近くに、その時間の流れと寄り添うようにして、この酒場はあるのだ。
湯島の老舗酒場『岩手屋本店』である。思わず「わぁ~お!」と声にしたくなるその外観。〝岩手屋〟と手書きされた面長の赤ちょうちん、長めの縄のれんからは江戸っ子的な粋すら感じる。
さらに「わぁ~お!」と声にしたくなったのは、屋根の看板には〝奥様公認酒蔵〟と、ちょっと皮肉さを感じる名文句だ。既にこの時点でウットリとしてしまうのだが、本当のウットリは中へ入ってからにある。
「うわおッ!?」
と、完全に声に出してしまった圧倒的その内観。天井、壁、テーブル、イス……どこを見ても品よく磨かれた木、木、木……とにかく〝木感〟が半端ではない。カウンターは8席、テーブルは4台と決して広くはない店内だが、どこか広々と感じる妙。どこに座っても眺めはいいだろうが……ここは店の一番奥のテーブルからひとつ前、ちょうど店内すべてが見渡せる席を今夜の酒座としよう。
ほほぉ、なんて美しいテーブルだ! 大木の木目をそのまま生かしたデザイン、ここまで大胆にぶった切られたテーブルに座るのは初めてだ。
そんな大胆テーブルに、大瓶のケツがトンッ。ただ瓶ビールとグラスをテーブルに並べただけで〝画〟になる……ゾクゾク、ワクワクしてきた。
ゴグッ……ゴグッ……ンダッ……、ンめぇでがんすッ! 思わず店名に因んだ岩手訛りが飛び出す。グーッと飲み干して、この堅牢なテーブルの上に「カンッ」とグラスを置く。めちゃくちゃいい音! 見事なカウンターゴングを鳴らし、いよいよお料理の出番といくでがんす。
まずは『めぬけ西京焼き』だ。〝めぬけ〟とは真っ赤な深海魚なのだが、それと反してちょっと目を疑う程の〝黄色〟が目に鮮やか。
鮮やかなのは色だけではなく味もそうで、淡白だが深みのある白身に、西京味噌の甘じょっぱい香ばしさがベストマッチ。ガリを添えているところが、サッパリとしていい。
私の故郷、秋田名物でもある『じゅんさい』があるのがうれしいじゃないの。ヌルっとしたじゅんさいには、酢醤油がたまらない。
ショウガと一緒にやるのが一般的(我が家的)だが、ここのように大根おろしともよく合う。やはり、故郷の郷土料理を食べると、気分が上ってくる。
「おお、やばい……」とか「めちゃめちゃいい……」とかを、自然と同行者に連発する自分がいる。酒を飲み、料理をつまんでからちょっと店内を見渡すと、もうね……なんとも言えない〝ンマッタリ〟とした気持ちになるのだ。
そうだよ、完全にこの酒場は〝居心地がいい〟酒場のそれなのだ。このモードに入ると、長尻は免れない。
初めて『鯨ベーコン』をこの着色にした人は、センスがズバ抜けていると思う。赤ではなく、蛍光ピンクなのだ。まるっきりアメリカの食い物じゃないか。
この蛍光ピンクを黄色のカラシに付けて、緑色のネギを絡め、茶色の醤油に浸して食べるとアラ不思議。超絶濃厚なクジラの脂と、歯ごたえのある傾向ピンクがとろりと溶け合っておいしい。
……さて、私の記事では基本的に料理の紹介は三品と決めているのだが、〝居心地がいい〟に突入中の私の食欲と酒欲は止まることを知らない。飲り続けよう。
このなんの変哲もない『厚揚げ』が、本当においしかった……まず箸で持つと、箸先からシットリとした感覚が伝わってくるのだ。
断面を見ると物凄く繊細な絹豆腐の模様で、食べるとカリっとした衣からジュワリと滴るような大豆の旨味が口中に広がる。豆腐自体に味付けでもしているのかと錯覚するほど、いい意味で豆腐の主張が強い。さぞかし名のある下町の豆腐屋で仕入れているに違いない。
『焼きおにぎり』が、うめぇぇぇぇ! パリンッとした海苔、香ばしい醤油がしっとりと沁みた焼きおにぎりがアッチアチ。
表面は硬めだが、中はふわふわと米の食感を愉しむことが出来る。えっ、焼きおにぎりに海苔を巻くだけでこんなにおいしくなるものか……?
まだまだ行きます、『イカの丸干し』だ! 調布の『武蔵野うどん』で食べてからの熱烈ファンになったのだが、おそらく〝酒のつまみ〟としてこれ以上の料理はないんじゃないだろうか。
読んで字のごとく、ワタの入ったイカをそのまま干すだけという、シンプルかつ完成された一品。半生状態のキモがまさに肝で、苦いと旨いの間ちょうどギリギリ、熟成された身とワタのコンビネーションたるや、ひと口たべて「おいしい」、またひと口食べて「もっとおいしい」」の無限スパイラルに陥る。
さらにもう一つオマケといこう。私はやはり秋田の人間なので、お隣である岩手の食に関しては至極身近であった。『南部せんべい』なんて、家中を探せば必ず何枚かはあったのだ。煎餅を取り囲む〝ヒダ〟からパリパリと食べるのがお約束。私のように、一番希少でおいしいとされるそのヒダのみを何枚も食い漁り、親に叱られた東北人も多いはず。
しかし驚いたのが、添えてあったバターの存在だ。今まで何枚も食べてきたが、バターを塗って食べてことはない。「こんなのウマいのか……?」と半信半疑だったが、ひと口食べて解った。バター、めちゃめちゃ合い過ぎる! 黒ゴマの香ばしさとバターの風味が、まったく別次元のウマさとして生まれ変わっていたのだ。
そうだ、バターを塗ったヒダのみを食べたら……また怒られるな。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました」
「ひとりだけど、いい?」
「はい、カウンターどうぞ」
諸兄姉たちが、ひとり去っては、またひとり入る。席に座ると軽いアテでぬる燗をすするその背中。その静かなシルエットと店の背景が、まったく違和感なく溶け込んでいる。それらと自分が同化していると感じる瞬間に、どうしようもない多幸感に包まれるのだ。
〝良い酒場〟に出逢ってしまった。
此処ぞ〝居心地がいい〟を体感できる酒場だと、酒場好きの端くれとして断言したい。
それはそうと、気が付いたら同行者と二人で五時間と、長尻も甚だしいことになっていた。居心地、よかったもんなぁ……会計の二万五千円がその証拠である。下町の大衆酒場で二万オーバーとは穏やかではないが、ただ、まったく気分がいい。
飲み代ではなく〝居心地代〟ってところか……よし、これからも居心地にお金を払っていこう。
岩手屋本店(いわてやほんてん)
住所: | 東京都文京区湯島3-38-8 |
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TEL: | 03-3836-9588 |
営業時間: | 16:00~21:30 |
定休日: | 日曜・祝日 |