大泉学園「酒蔵あっけし」ニガい思い出の町でウマい酒を飲む日
〝製本工場の仕事〟がどんなかものかご存じだろうか。ベルトコンベアで流れてきた本を書店ごとに振り分けたり、印刷されたバラバラのページを、馬鹿デカイ機械にひたすら流し込むという作業など、私は二十代前半にこの日雇いバイトをやっていた。当時はビジュアル系バンドマンだったので、赤い髪で眉毛が無くても雇ってくれるのが限られていたのだ。
給料は安く、体力さえあれば問題なくこなせるのだが……私はこのバイトで、だいぶ〝心〟を病られた。都内近郊の工場を回っていたのだが、どこの製本工場も共通するのが〝コミュニケーション〟が皆無であること。作業中はもちろん無言なのだが、基本的に人と関りを持つのが苦手な人が集まってくるのか、休憩中だろうが誰も交流を持ちたがらない。もちろん、古株同士で談笑することもあったが、基本は皆ひとりの時間を過ごす。作業が終わったらすぐに解散だ。ひとり好きにはいいかもしれないが、この環境が何か月も続くととなると、徐々に心が塞がれてくるのだ。そのうち、何をやるもの楽しくなくなった。
西東京の『大泉学園』にある、大きな製本工場でバイトしていた時のこと。二か月くらい通して働いていたのだが、ここも全くもってつまらなく、作業もミスばかりしていた。「自分は一体、何で東京に居るのか……」と、全部やめて地元に帰ろうかなどと、その朝も駅前にある製本工場経由のバスを待っていた。すると、前に並んでいた青年が振り向いて声をかけてきた。
「丁合部の人ですよね? 僕、仕上部なんスよ」
20、21歳くらいだろうか、当時の私より少しだけ下と思しき青年であった。いや、というか君は誰なんだ……?「はぁ」としか言えない私に、彼は続ける。
「今日、いっしょに昼飯どうっスか?」
「えっ、昼飯……?」
誰かと一緒に昼飯か、久しぶりだなぁ……いやいやいや、だから君は誰なんだよ!? 謎の青年の前に狼狽えていると、工場行きのバスが到着した。そのままの勢いでその青年と並んで座り、バスは発車した。
青年は別の部署で働く『T』といった。キャップ斜め被りのちょっとヤンチャな雰囲気だが、とても礼儀正しかった。ブレイクダンスをやっていて、偶然にも当時私が住んでいたアパートと同じ町内に住んでいた。工場に着くと、Tは片手でひょいと体を上げてダンスを披露してくれた。
「こんなんやってるんス!」
「すごい!」
Tは体を丸めて、床にクルクルと回ってポーズをキメて見せた。この時くらいか、心のどこか遠くに〝ワクワク〟する感覚を覚えていた。
「なんとなく、前から話してみたかったんスよねー」
予定通り工場内の社員食堂で、昼飯を食べながらTは言った。不思議なもので、私は子供の頃からこんな風に話しかけられることがあった。私もTの屈託のない性格に、一気に惹かれていくのが解った。
それからの日々は一変した。あの〝無〟でしかなかったバイトへ行くのが、楽しみでしかたがなかった。朝に大泉学園駅のバス停で待ち合わせ、一緒に工場へ行き、昼飯を食い、ブレイクダンスを見て、一緒に駅まで帰る。ケータイのメアドを交換したのも、かなり久しぶりだった。どこにでもある友人との時間だったが、この時の私にはある意味〝救い〟の時間でもあったのだ。間違いなく、あの時にTがいなければ地元に帰っていただろう。
そんなことを思い出して、約二十年ぶりの大泉学園へとやってきた。もちろん製本作業をしにではなく、酒を飲みにである。
ニガい思い出があり、懐かしさもある複雑な町は、あれからだいぶ発展していた。北口はずいぶんと高層マンションがたったなぁと思いつつも、南口は昔とあまり変わっていなかったことに、どこか安堵する。その南口に降りて目と鼻の先に、お目当ての酒場があるのだ。
赤いテント看板が目印の『酒蔵あっけし』だ。昼から飲めてしまう、素晴らしい営業理念。色焼けた電光看板とシワシワの白暖簾がいい雰囲気だ。〝自然の味・素朴な心〟というキャッチフレーズがまたいい。工場バイトの時は、まったく知らなかった。なんだか、同窓会の待ち合わせ場所に入るような、緊張した気分で暖簾を割った。
「いらっしゃいませ~」
おおっ、こりゃスゴい! 半地下の空間には、大きいテーブル席が五台と奥には小上がり席が四つもあり、まるで工場の様に広い。こげ茶の床のタイル、色あせた壁、蛍光灯の光……この時点で完全に気に入ってしまった。
その中央のテーブルに酒座を決め、いざ酒場をはじめよう。まずは、おビールを頂戴いたしやす。
うっは、瓶もグラスもめちゃめちゃ冷えてる! どちらも持ったら、指の皮が引っ付いてしまいそうなくらい冷えていらっしゃります。
トゥクトゥクトゥク……ゴグッ……セイッ……ホンッ……、くふぅ! 最高にうんめぇぞ! この触り心地万点の〝酒皺〟のテーブルを撫でながら飲るうれしさよ。あぁ、早く料理もいただきてぇ。
まずは『イカの沖漬け』からだ。これがね、笑っちゃうくらいウマいのなんのって。醤油のコクと香りが、ブッタ切りにしたイカの身にしっかりと染みてて、ほんのりとワタのほろ苦さが広がる。ウマ過ぎて一瞬で無くなったほどだ。
続けてメニューにあった謎の『火の鳥』がやってきた。何のことかと思ったら、から揚げがカレーに沈めているという珍品であった。これのどこが火の鳥なのかと、訝しながらひと口……んっ? あれ、これは……か、か、辛ぇぇぇぇっ!! とんでもない激辛カレーだったのだ。なるほど、火を吐くように辛いカレーの鳥ということか。
しかし、これも辛いのだが不思議とひと口、またひと口と止まらない。ただのカレーではなく、ちゃんとおいしいカレーに仕上げているところがいい。今まで火の鳥といったら『FANATIC◇CRISIS』の曲しか思いつかなかったが、今度からこの酒場も思いつくことになるだろう。
大泉学園にも、こんな酒場があったんだな……一日に300円しか使えなかった極貧バイト時代には知る由もなかった。
Tと連み始めて二、三か月後、はじめて「飲みに行こう!」という話になった。工場が休場日の夜に、いつもの大泉学園駅に待ち合わせることになった。当時の私はほとんど酒など飲まなかったが、その日ばかりは楽しみにしていた。
最近お気に入りの『磯辺揚げ』がやってきた。もともと、ぬるくてグニッとした食感があまり好きではなかったが、新中野の『藤吉郎』で食べてから開眼した。しかしここの磯辺揚げは、さらにその上をいくもので、特に揚がり具合が絶妙。
添えてあるネギだくのツユとの相性が抜群で、今まで食べてきた中で一番ウマい磯辺揚げだと断定した。磯辺揚げ好き……いや、逆に私の様にあまり好きではなかった方に是非食して頂きたい一品だ。
待ちに待った、Tとの飲みの当日。夜に来るのがはじめてだった大泉学園は、かなり新鮮だった。待ち合わせの5分くらい前に到着して、煙草を吸いながらTが来るのを待った。
──それから10分が過ぎ、20分が過ぎたが、Tはまだ現れない。遅いなと思いつつも、私はそのまま待った。秋の始め頃だったか、駅前に吹く風はやけに肌寒かった。
「お待たせしましたー」
待ってました! しかも、これはいい意味で裏切られた『ホタテグラタン』だ。思っていたのは小粒のホタテが散りばめられたグラタンだったが、まさかの巨大ホタテが大胆に埋め込まれたものだったのだ。
スプーンを挿れると、そのまま突き刺さるようなズップリ感。トマトソースが絡んだマッシュポテトがたっぷりと詰まっており、チーズと共に糸を引く。思わずガブリと食らいつくと、ムチムチのホタテとカリトロのチーズとの食感が超絶グッド。ぽっくりしたマッシュポテトもいい舌触りのアクセントだ。グラタンが焼き上がるまで時間はかかったが、これは待った甲斐がある。
あれから、一時間ほど待った。途中で何度かケータイのメールを送ったが、返信もなかった。理由は分からないが、結局Tは現れなかったのだ。「きっと、急用でも出来たのかな」と、割と深くは考えずにそのまま帰宅することにした。
しかし、週明けの仕事にもTは現れなかったのだ。メールを送ったが、やはり返信はない。今とは違って既読機能などもない。なにか事件にでも遭ったのか、それともTの気に障るようなことをしたのかなど、いろいろ考えたがまったく見当がつかなかった。そしてそのまま、Tと会うことは二度となかった──
突然現れて、突然消えた謎の青年。それからほどなくして私も仕事を変えて、二十年余りが経ち、今こうしてその思い出の近くで酒を飲んでいる。あの時、Tと一緒に飲みに行っていたら、この店で飲んでいただろうか……それとも、また突拍子もないことを言って、またワクワクするような酒場に連れて行ってもらっていたのだろうか……。
ひょっこりとTが現れることを願い、この日、ニガい思い出の町でウマい酒を飲み続けた。
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酒蔵 厚岸(あっけし)
住所: | 東京都練馬区東大泉5-41-13 |
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TEL: | 03-3978-0032 |
営業時間: | [火~土] 11:00~14:00×15:00~22:20[日曜祭日]16:00~21:30 |
定休日: | 月曜、年末年始 |