吉祥寺「神田まつや」粋をやってみた
釣りと酒場を嗜んでいる者として、釣り人が最後に辿り着くところは〝川釣り〟というが、酒場でいうところ、それは〝蕎麦屋〟だと思っている。川釣りは他の釣りの様に、派手な仕掛けや高性能なリールは一切ない。長い竿に糸と針だけ、あとは己が長年培ってきたカンだけを頼りに糸を垂らす。衒いがなく、そのシンプルかつ洗練された釣り姿がカッコイイ……いや、もっと的確に言うと釣り人として『粋』なのだ。
それを蕎麦屋に当てはめてみる。男独り暖簾を潜り、お気に入りの席にスッ。呟くように「酒……ぬる燗」と女将に告げ、静かに待つ。肴は焼き海苔を数枚と板わさでいい。ぬる燗をツイー、焼き海苔をパリッ、板わさをハモッ……これの繰り返しだ。しばらくして『もりそば』が届きズルズボ。「……ごっつぉうさん」と呟いて店を出る──シンプルかつ洗練された飲り方、それが酒場での『粋』というやつだ。
派手なつまみをバクバク、ビールをゴクゴクじゃ、到底『粋』には辿り着けないだろう。
『吉祥寺』
若輩者ではあるが、たまにその『粋』で飲ってみたくなるのがサカバーとしての性分。〝粋だめし〟のために吉祥寺までやって来たが、この日はカンカンの猛暑日で昼過ぎには40度近くまで達していた。駅から出ると、日陰を縫うようにして目的の酒場がある東急百貨店へと向かった。
『神田まつや』
神田に本店を構える超有名蕎麦屋『神田まつや』の分店で、本店の激渋な外観と違いだいぶ初々しい。いや、初々しくて結構。なぜなら、30年後に「ワシは吉祥寺まつやが、ピカピカの時に行ったことがあるんじゃあ」と後輩に自慢が出来るからだ。さっそく中へと入りたいところだが、数名並んでいる。飲食店に並ぶというのが、大馬鹿野郎のウイルスぐらい嫌いな私だが、『粋』というのはここから始まっている。最後尾に並び、優雅に読書でもして待ちますか。
ボロボロになるまで読み返した〝聖書〟を読むこと約15分。ようやく暖簾を引いて中へと入ることが出来た。
十数卓ほどのテーブル席のみの店内は、やはり真新しい。しかし、どことなく老舗感を醸し出す雰囲気は流石である。
テーブルを拭き終えた女将さんが「こちらどうぞ」という壁側のテーブルへと座った。さて、ここからが〝本粋〟である。太田和彦先生ばりの口調で、粋に注文しよう。
「お飲みになります?」
「酒……ぬる燗、43℃」
粋だなぁ……今日の猛暑なら、ここはビールを頼むのが普通だろう。それがいきなりぬる燗を43……
「え、なんです?」
「あっ! あ、えっと……ぬる燗いただけますか!」
無事に……いや、粋にぬる燗を頼むことが出来た。おそらく女将さんも奥で蕎麦粉を練る大将も〝粋なヤツが来やがった〟と思っているに違いない。ふふふ……ちょっとだけ腋に汗が滲むけれどな。
『ぬる燗(特撰)』
純一無雑な白の徳利と猪口。トゥクトゥクとぬる燗を猪口に満たし、ツイー……
「ぬるい……」
図らずも本心が漏れた。ぬる燗だもの、しかたがない。だけど、外は40度だぜ? キンカキンカに冷えたビールが飲みたい……いや、ここまで来てそんな無粋なことをしてなるものか。肴だよ、〝粋な肴〟があれば決してぬるいなどと感じるわけがない。テーブルのメニューを手に取った。
粋な肴……やはり、蕎麦屋の肴といったら『焼き海苔』と『板わさ』がいいだろう。ふふふ……粋だねぇ。
「もし女将……注文を」
「はい、どちらを召し上がります?」
「焼き海苔、板わ……あ! ちょっと待って下さい!?」
わさびかまぼこ──770円
焼きのり──550円
げげっ!! 高っか!!……いやいやいや、なんでもない。でも、わさびかまぼこが770円って……うちの近くのスーパーで売っている紅白かまぼこなら88円で、チューブワサビが98円だから、200円もしな……
「あのー、どちらを……」
「あっ! えーと、えーと……焼き海苔だけ下さい」
「焼き海苔でございますね。少々お持ちください」
「はい……エヘ、エヘヘ……」
今のはどうだ? 粋どころかダサくないか……? いや、まぁ、ちょい粋だったことにしよう。するとそこへ──
「こちらお通しです」
女将さんから、目の前に見たこともないお通しを置かれた。これは……味噌か?
「蕎麦の実が入った蕎麦味噌になります」
「へー!」
〝塩をアテに飲る〟というのは聞いたことがあるが、味噌、しかも蕎麦味噌とは粋ですねぇ。箸の先に少しつけて舐めてみる……んまい! 玄妙な味噌の味に、プチリプチリと蕎麦の実の食感が堪らない。
『焼きのり』
来たな、550円。そりゃこの値段だったら〝箱〟に入れちゃいますよね。醤油とたっぷりのワサビが付いているのがうれしい。
パカリと蓋を開けると、中からは荘厳な黒光りが放った。こいつはぬる燗に合いそうだ。どれ、ひと口……
「パリッ」
厚みのある海苔からは痛快な音が鳴る。ハラリリルハと口の中で解け、焼き海苔の香ばしい風味が広がる。
そこへ改めてぬる燗を、ツイー……焼き海苔をパリッ、ワサビ辛ッ、ツイー……パリッ……旨粋だねぇ。
おんや? 向かい席のお坊ちゃんは、サイダーと親子丼を無邪気に頬張ってらっしゃる。お子ちゃまですねぇ。まぁ、もう三十年もしたらこのオジサンのように粋というものが解るかもね、後輩クン。
すっかりイキってきたところで、そろそろ仕上げの一品をいただこうか。今度こそ、粋に注文しよう。
「もり……ひとつ」
「え、なんです?」
「あの……もりそばをく~ださい♪」
『もりそば』
いい色、してるよねぇ~? ツヤツヤと霞色に輝く蕎麦は、恭しくザルの上につんもりと、一切の無駄はない。ズズッと箸を挿れて蕎麦尻をツユにチョン。そのまま口元に持っていく。
ズルズボ──、
ズルズボ──
啜り上げる気持ち良さよ……! かる~く咀嚼してやれば、口の中には蕎麦の香味がふうわりと広がり──ンまいッ!! さらに、軽やかな喉越しこと素晴らしきかな。もりの山はあっというまに平らになった。
締めに蕎麦湯を忘れてはいけない。たまに〝ゆで汁の何がおいしいのか解らない〟という不届き者がいるが、私はこの蕎麦湯だけでも酒一合はイケる。
ツユに蕩みのある蕎麦湯を入れ、クイッ……クイッ……
そして、残りの酒をク──ッと飲み干し、お猪口をテーブルに「カンッ」
『粋』
一丁あがり!
歌舞伎だったらここで〝チョン〟と柝が入る。
これだよ、これ。これが〝粋に飲る〟ってことだ。
さぁ、あとはこのまま颯爽と店をあとにしよう。
さぁ、会計を。「女将さ……」
さぁ、会計。「お……」
さぁ……!!
物、足りないっ……!!
おいおい……喉はカラカラ、腹もペコペコじゃねぇか。なんなら、今すぐ向かいのお坊ちゃんのサイダーと親子丼を奪いたいくらいだ。
どうする自分。『粋』はすでにクリアしているぞ。ここまできて、なにか余計な事でもするっていうのか、え?
ハハッ、馬鹿な事を言うんじゃありませんよ。私は自分の意志でこの〝川釣り〟を目指して猛暑の吉祥寺に、老舗蕎麦屋に来たんだろう? あぁそうだ、早く鞄から財布を取り出せ──
「すいません! ビールと親子煮下さい……!!」
「はい、ビールと親子煮ですね」
ハフッ、うまっ、ハフッ、
ゴク……ゴク……ゴク……ぷはぁ──
〝ありゃ、まーた小アジかよ〟
釣りの辿り着くところは〝川釣り〟というが、
私はまだまだ、海釣り……それも堤防から小さいウキを浮かべるレベルです……
参考文献
神田まつや 吉祥寺店(かんだまつや)
住所: | 東京都武蔵野市吉祥寺本町2-3-1 |
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TEL: | 0422-22-1722 |
営業時間: | 10:30~21:00 |
定休日: | 不定休(東急に準じる) |