吉祥寺「千尋」ここで飲らせてください!親しい街にも酒場隠し
〝灯台下暗し〟とはいったもので、慣れたものほど見落としていることはよくあり、同様にして『親しい街』にも、まだ出逢っていない酒場が多く隠れている。私にとっての親しい街とは、かれこれ15年以上の付き合いで、サンロードとハモニカ横丁で酒を覚えたし、井の頭公園では何度となく恋愛ドラマがあった。そうそう、公園口にある『いせや』で一度だけ……いや、ちょっとここには書けないようなことも、そこでは多くの事を経験してきた。そんなところに15年以上も通い続けていて、名前も知らなかった灯台下暗しの酒場があるというのが、酒場愛好家として何ともじれったい。
『吉祥寺』
ここが私にとっての親しい街である。今までに『火弖ル』『神田まつや』『鹿角』『闇太郎』『玉秩父』など、この街の酒場は多く記事にしている。もちろん、記事にしていないものも含めれば、相当数の酒場を訪れている。ただ……その灯台下暗しの酒場は、最近までまったく気が付かなかったのだ。
『千尋』
駅からすぐ、雑居ビル群の隙間にひっそりとその酒場はあった。ここの店の前など、何百回も往復しているのにもかかわらず、なぜ気が付かなかったのか……近くにあるジブリ美術館に因んで〝千と千尋の酒場隠し〟とでもほざいておこう。店先には年季の入ったショーウインドウ、大提灯、沁み暖簾……どれも素敵だ。とにかく、こんな店構えを見せつけられたら、入らないわけにいかない。はやる気持ちを抑えて暖簾を割った。
「いらっしゃいませー」
Oh!! 思った通りのGOODな内観だ。割烹系の雰囲気に、カウンターが店の奥まで伸び、奥にはテーブルが2卓ある。文句なしに、大好きなタイプである。口開けに近い時間からなのか、はたまた大馬鹿野郎のウイルスの影響か、客は自分以外に先輩がひとりだけ。先輩から対角線のカウンター席にストン……おっ、これは──
「しっくりと、いいですねぇ……」
座ってすぐ、その〝座りの良さ〟に溜め息が出た。単に椅子の座り心地がいいだけではない、店全体が包み込んでくる環境音、匂い、ここだけに流れる時間の流れ。それらが混然一体となり、この酒座を演出しているのだ。座れば解る、この居心地。
店名でもある『千尋』という言葉には、〝途方もない深さ〟という意味があるという。確かに、居心地のいい酒場で飲っていると、どんどんその酒場としての〝深み〟に陥ってしまう……なるほど、ここは文字通り〝千尋な酒場〟だということか。
『黒霧島 お湯割り』
千尋な酒場だと確信すると、それに酒も合わせたくなるもの。ここに合うのは、大衆芋焼酎である『黒霧島』のお湯割りでしょう。お行儀のいい陶器ではなく、大衆酒場らしいガラスのグラスがマストだ。手で触ることもできないほど、チンチンに温まったお湯割りを口から迎えに行く──相変わらずウマい。続けて料理だが、黒霧島のトロキリとしたウマさはすべての和食にピタリと合うので、段々と温度が下がるのに合わせて料理を変えていくのが正しい頼み方だ。
『アジのタタキ』
淹れたてアチアチのお湯割りには、武骨な口当たりのタタキがよく合う。ここのは大ぶりにタタかれた身が、ムッチリと見るからに食べ応えがありそうだ。ひとくち食べると、新鮮極まりない食感が抜群。その濃厚な脂身を、熱いお湯割りが優しく蕩かしてくれる。
『赤魚かす漬焼き』
パリパリと音を立てるように、こんがりと焼かれた赤魚。ほんのり酒かすの香りが漂うところに、箸を挿れてパクリ。ホクホクの白身の甘味が、皮のサクサクと共に口中に広がる口福──こいつが、少し冷めたお湯割りとよく馴染みやがるぜ。
『げそわた焼き』
出たっ、この絵面の良さよ!! まるで、貝殻に吉祥寺中の幸せが凝縮されているようだ。辛抱たまらず、げそを一本……おっと、〝わたジュース〟をたっぷりと湿らすのを忘れずに。さぁ、いきましょう。コリッ……シコッ……コリッ……シコッ──うんめぇ過ぎるっ!! げそを噛む度に「じゅわぁん」と濃い目のわたジュースが込み上げて、それを呑み込むと今度は私の五臓六腑に沁みる。
最後に残ったわたジュースと、ぬるくなったお湯割りを交互に、舐めて飲むのを繰り返す。しあわせだなぁ……わたのホロ苦と芋焼酎のコクが見事にガッチンコ。
見た目には貧乏くさいが、これが最高の飲り方なのだ。そのひと舐め、ひと飲みごとに、深く酒場へと、千尋の如く──
「こっちにビール、おかわりくださーい」
「ポテトサラダお待たせしました」
千尋な酒場に浸る私をよそに、店はすっかり満席状態になっていた。どこの酒場もそうだが、やはり店の人々が忙しく働く姿はいい。もう、暇そうにしている酒場にはうんざりだ。ホワイトノイズとも呼べるこの慎ましい賑わいと共に、また深く、酒場へと沈んでいくである。
♪Vide ‘o mare quant’e bello,
♪Spira tantu sentimento……
どこからともなく、オペラが流れている。店の有線放送からであろうか、そのラジオっぽいモノラルな音質が、またこの場の雰囲気に合っている。いいねぇ……こいつはもう最高の酒場だ。よし、もっともっと〝途方もない深さま〟で行こう、そんなことを思っていると……
「あっ、すいません! 音が漏れてましたね……」
突然、となりの先輩が謝ってきた。慌てながら自分の鞄からスマホを取り出して操作すると、オペラは止まった。どうやらこのオペラは、イヤホンが外れた先輩のスマホから漏れていたものだった。外れているのを気付かずに、イヤホンだけ耳に入れてオペラを聴いていたというわけだ。「なーんだ」と思いつつ、先輩が読んでいたそのオペラのものであろうブックレットのタイトルを、なんとなくスマホで検索してみたのだ。
『ナポリターナ黄金時代』
中古CDアルバム 28,000円より
にまんはっせんえん!?
「ブッ!!」と、冷めたお湯割りを拭きこぼした。中古でそんな高価なCDなんてもんがあるのか……
一瞬にして千尋から海面まで急浮上してしまう貧乏性な私には、浅瀬で280円のナポリタンと飲るのが、まだまだお似合いかもしれない。
千尋(ちひろ)
住所: | 東京都武蔵野市吉祥寺南町1-1-7 |
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TEL: | 0422-45-0095 |
営業時間: | 17:00~24:00 |
定休日: | 水曜日 年末年始 夏季休業 |