吉祥寺「火弖ル」カウンターハック!口開け酒場のススメ
口開けの酒場に入るのは面白い。「営ってます?」「えぇ、もう大丈夫ですよ」なんていう店主とのやりとりをして、まだ誰も居ない酒場に入る。静謐な空気と、厨房の奥からはトントントンという仕込み中の包丁の音が聴こえてくる。邪魔にならぬよう静かにカウンターへ座る。すると奥から店主が顔を出して「まだちょっと炭を熾してなくて……」と、焼き物への気遣いをくれる。「いいんです、いいんです」と快諾して、生ビールと簡単に出るアテをお願いする。シン……とする中、ゆっくりと独酌が始まる──まず、このひと時が堪らない。
そうしていると、ひとり、またひとりと客が入ってくる。「まいど」などと陽気に店主へあいさつする者や、無駄口を一切発せずに愉しむ者を観察してみる。カップルが入って来てその会話に耳を傾けるのもいい。もはや、それが酒のアテになるのだ。口開けの酒場は最初から居る客だからこそ、こういう愉しみ方があるのだ。
例えるなら……プラモデルは完成させるまで楽しいという様な、出逢いから実っていく恋愛ドラマでも観ている様な……その酒場で起こったことを自分だけが握緊め、自由に想像する、それが実に面白いのだ。
『火弖ル』
初見でこの店名を言える人は、ほとんどいないだろう。これで〝ほてる〟と読む。東京・吉祥寺のホテル街にあり、ホテルの向かいにあるからこの名らしい。何度か訪れたことがあるこの小さな酒場は、店の中央にある細長いコの字カウンターが特徴的だ。
冬でも16時はまだ明るく、口開けの店の中にはまだ客がいない。いつも混んでいる店なので入れないこともあるが、これもまた口開けのいいところ。さっそく木製の引き戸を開けて中へ入った。
ガラガラガラ……
コの字カウンターの奥の厨房では、仕込み中のようで忙しそうだ。少し待ってみると、奥から若い男の店員さんが出てきた。
「いらっしゃいませ」
「すいません、営ってますか?」
「大丈夫ですよ、カウンターどうぞ」
コの字の上座にスッ。座ってみるとスモールサイズのカウンターが何ともかわいい。カウンターマニアの私は、早くここに酒を置いてみたくなった。「生ビールください」と告げると、店員さんはまた奥の厨房に戻って行った。
ふふふ……ここには私ひとりだ。今だけこのカウンターは、私の物といっても過言ではない。
トントントン……
♬~、♬~……
聴こえてくるのは厨房からの作業音と音量低めのラジオのみ。今夜はまだ人の温もりを感じさせない店の空気が……嗚呼、本当にいいですねぇ。
『生ビール』
うすはりグラスに並々と注がれたビールがウマそう。たまらず、クイ……クイ……クイ──んまぁい。ビールはグラスの口当たりも重要だ。
「まいどー」
2、3口飲ると客が入ってきた。こってり関西弁の先輩は、迷うことなくカウンター左側下座に座った。
「どうも、いらっしゃい」
「ジャイアンツ勝ってるやん」
「あ、勝ってました?」
「せやねーん、お酒ちょうだい」
軽快な切り出しは、さすが関西人といったところ。気になってスマホでジャイアンツの戦績を確認してみたが、特に連勝しているわけでもなかった。嫌味だったのだろうかと思いつつ、料理を頼むことにした。
『ハムカツ』
なんたるジャイアントッ!! 2㎝はあるだろう迫力満点の切り口は、まるでサシの入った高級和牛の様に美しい。食べると、カリジュワッという音を立てて衣の香ばしさとハム汁の旨味が口に広がる。
ハムというよりは正肉に近い柔らかな食感。ハムカツの名店は多い中、これはかなりの上物だ。
「ボールって何です?」
「天羽の梅というエキスを焼酎と割ったものです」
「焼酎は何を使ってるのかな?」
「キンミヤです」
「へー、キンミヤなんだ。じゃあそれと、あとね……」
ハムカツを食べている最中に入ってきたのが、スーツ姿の中年カップルだ。着席するなり旦那さんは、店員さんからメニューについて矢継ぎ早に訊ねている。着こなしからして上流な雰囲気なので、はじめてこういう大衆酒場に来たのかもしれない。夫婦水入らずで飲りに行けるなど、私の将来にはあるのだろうか。
『ボール』
仲の良い中年カップルに肖って注文。正直なところ、東京下町以外のボールにはあまり期待していないのだが、ここのはたいへん良く出来ている。強タンサンに天羽の梅の割合、注ぐ手順に至るまで申し分なし。こういう細かな拘りが、飲酒ファンの心をガツリと掴むのだ。
「ひとり、大丈夫かしら?」
「大丈夫ですよ、カウンターへどうぞ」
大きな荷物を持ったマダムが、ひとりで入ってきた。目の前のカウンターに座ると、ニコニコと嬉しそうにメニューを見ている。店員さんがカウンターの内側からマダムに寄ると、マダムは嬉しそうに言った。
「いやね、さっき東京駅に着いたんだけど、友達が東京行くなら必ずここに行きなさいって言うから来てみたんです」
「そうでしたか、ありがとうございます!」
快活なしゃべりのマダムは初めて東京へ来たらしく、ここへ来ることを楽しみにしていたようだ。それもあり、スモールカウンターでは収まりきらないほど大量に料理を頼んでいた。店員さん、うれしいだろうなぁ……と、私がニンマリしていると次の料理が届いた。
『鰯の海苔巻き』
うわっ……なんと美しっ!! 鰯の海苔巻きとは一体どんな代物かと興味本位で頼んでみたが、それはもはや〝芸術作品〟とも呼べるビューティフルな海苔巻きだったのだ。
手の込んだ、その玲瓏たる海苔巻きをひと口──うんめぇぇぇっ!! 見た目だけじゃなく、味も完璧だ。脂のノッた鰯の蕩味に、あっさりと酢が効いている。それを内側からはキュウリ、外側からは海苔のカリパリッとしたアクセントが抜群にして絶妙。これは目からウロコ、舌から苔の珠玉の逸品だ。
その後、数人入って来ると店はほぼ満席になった。ざわざわと喧騒の中にあっても、手に取るように解る……みんなの会話が。
〝ジャイアンツはなぁ……〟
やっぱ、嫌味なのかな
〝キンミヤって三重県の……〟
旦那さん、奥さんはもう興味なさそうだよ
〝他におすすめはあるかしら?……〟
食べきれるのかい、マダム
いいですねぇ……分かるよ、分かるよその話。私の中でだけなのだが、この酒場がひとつの〝集合体〟となり、ここに完成したのである。今はその完成したプラモデルを見つめていたいというか、その恋愛ドラマの最終話のエンドロールに浸っていたいというか……。出来ることなら、このまま閉店まで見届けたいところだが、そろそろ遠慮してこの席を譲るのも、口開けから居る者としての礼儀。
お会計をしようと、鞄から財布を取り出した瞬間──
「二人、いいですか?」
とんでもなく、美人の二人組が入ってきたのだ。私は一旦、出した財布を鞄へと仕舞った。美女たちは〝関西先輩〟のカウンター向かいに並んで座った。ゴクリ……いやぁ、本当に見とれるほどの美人だ。その美人さに気が付いているのは……どうやら関西先輩だけのようで、さっきからチラチラと美人の方を見ている。口開けから居る私だから、それに気づいたのだ。すると、関西先輩が……!
「こっちにハンガーあるで。使いなよ」
美女たちは上着を美脚の膝に置いて座っていたのだが、それに気づいた関西先輩(私も)は、さりげなくハンガーを差し出そうとしたのだ。
やるなぁ、関西先輩……が、ところがどっこい、
「大丈夫でーす」
目も合わされずにスルー。先輩は「あ、はい」と、まるで何事もなかったかの様に酒を飲み直した。美女たちなど、完全に何事もなかったかのようにメニューを見ている。
こうして密かにフラれたことを知っているのも、口開けからこのカウンターで飲っていた私だけなのだ。
火弖ル(ほてる)
住所: | 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-30-14 |
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TEL: | 0422-23-8033 |
営業時間: | 16:00~23:00 |
定休日: | 不定休 |