麗しき愛犬「クロ」の招待状/大宮「伯爵邸」
小学生の頃、家で犬を飼っていた。最近だとミックスっていうのかもしれないが、いわゆる雑種で真っ黒の長い毛だったので、安易に〝クロ〟と名付けた。
私の家は小学校からかなり近いのもあって、毎日のように友達が集まりくだらない遊びばかりしていた。その中でも最もくだらない……いや、今でもなんであんな遊びをしていたのかわからないが〝クロ伯爵〟という遊びをよくやっていた。

時代背景は、おそらく中世ヨーロッパだったと思う。私の家……いや、その領地はクロ伯爵が支配しており、その配下に貴族、商人、農民、そして奴隷が暮らしている。クロ伯爵の居城は二段ベッドの最上階で、シーツや電飾などを天井から吊るして装飾された豪華な宮殿。貴族である私はそこの召使いであり、部下数名と豊かな暮らしをしている。定期的にクロ伯爵が領地を視察するときは、商人と農民はひれ伏し、ドッグフードを献上し、優しくブラッシングをさせるのである。
いつも奴隷役をかって出る〝イモ〟というあだ名の同級生がいて、そいつの暮らしはひどかった。まずは全裸になり、着ている服を前面にだけにテープだけ固定、いわゆる〝びんぼっちゃま〟スタイルになることから始まる。その格好で、常に勉強机の下……いや、牢屋にブチ込まれるのである。普段の食事は砂糖三粒で、クロ伯爵の視察の時だけコップ一杯の水道水がいただけるという最低な身分。たまに発狂してクロ伯爵に自分の尻の穴を嗅がせていたイモは、フェイスブックを見る限り、嫁と子供と幸せに暮らしている。
そんなくだらない遊びを、多い時だと10人くらいでやっていたから恐ろしい。ふと、この歳になってクロ伯爵遊びをやってみたらと思うと……

いや、やるわけがないが、埼玉県大宮にも〝伯爵〟がいることを思い出した。

大宮といえば『いづみや』や『酒蔵 力』などの昼飲み天国でもあるが、最近は人気で並ばないと入れない酒場が増えた。

その中にあるのが……『伯爵邸』だ! まず……ネーミングのセンスがいい! シュールでありレトロでもあり、逆説的なカッコよさがある。そして、その名前に負けない賑やかな外観。そもそもの建物自体は、どこにでもあるモルタルビルなのに、アラビアンな装飾がいかにも伯爵っぽいじゃないか。

砂漠のオアシスを思わせる植物と、店先のショーウインドウ。派手過ぎずヤラし過ぎず、すべてがちょうど伯爵っぽい。ああ、伯爵様……お邪魔させていただきます!
「いらっしゃいませ~」

いや~ん、外観も然ることながら内観もすごい情報量の多さ! 広めの店内は入ってすぐにレジがあり、その周りには洋酒の瓶が並ぶ。日本酒に焼酎、中には巨大な高麗人参酒やハブ酒もある。

とにかく、店内全体が派手で、高貴な伯爵がいらっしゃるような豪華絢爛というわけではないものの、マッドサイエンティストな伯爵が棲んでいるような、ワクワクするような内観だ。

召使い……いや、スタッフの方に通されたのは、ちょっと隅にある秘密の部屋のような席。たまりませんね……どうしたって、いち早くこの席で酒を飲んでみたい。

やってきたるは赤星の瓶ビール。耽美な赤茶色のテーブルに、よく似合いますねえ。

ぐびんっ……ぐびんっ……マナさまっ……、つああああああああっうんめえ! 伯爵サマ、おいしいでございますよ。席がいいと、酒もいつもよりおいしくなる。そうなると、料理だっておいしくなるのは決定的だ。

そうそう、伯爵邸といえば『元祖ナポリタン』として有名だ。まあ、旨いのは百も承知なので、あえてここでは頼まない。単に好きなもの頼むのが私の流儀……あ、みんなそうか。

それでも、名店のケチャップは舐めておきたいの小心者の性だ。『オムライス』は、ふわとろの卵がとろけるようにライスを包み、口に入れた瞬間コク深いケチャップのジンワリとした酸味が重なる。

中のチキンライスがもちもちと主張し、バターのまろやかな輪郭が広がっていく。気づけばスプーンがリズミカルに往復している。

つづいて『豚肉の塩漬け』がやってきた。豚肉との間に半月レモンスライスが交互にサンドされ、高級フレンチの様相。肉肌が美しい豚肉は、なめらかな脂と塩のまろやかな丸みが繊維の隅々まで旨みがしみ込んでいる。

そこへさりげないレモンの酸味が静かに刺激して、完璧な豚肉の塩漬けとしてフィニッシュさせている。決して派手さはない。だが、派手さ以上の魅力が詰まったひと皿だ。
「クロ、どっかさ逃げだぁ」
上京して数年後のある日のこと。母親から散歩中にクロが逃亡したという連絡があった。そのうち帰ってくるだろうと思っていたらしいが、一週間以上帰ってこなかったので保健所や近所の公園など方々探したらしい。
その後、クロ伯爵の姿を見たものはいない。

人間の歳にして80歳くらいだったろうか、領地逃亡の理由はあまり考えたくはないが、たくさんの人間に出会えて、まあまあ、いい犬生だったんじゃないだろうか。

涙を拭いて、次の料理だ。純白プレートの半分に鎮座する『ハンバーグ』。その頂に輝く目玉焼きは、まるで伯爵サマの王冠である。家来のベーコン、ブロッコリー、もやし、そして人参が名脇役として彩りを添える。

王冠の上からフォークを入れた瞬間、バーグ脂のマイナスイオンが沸き上がる。そのまま、ひと口……旨ぁぁぁぁい! 極上肉汁のコク、目玉焼きとのモッシュが最高。それをビールで流し込む幸せといったらない。もし〝料理と酒のマッチングアプリ〟があったなら、ビールと目玉焼きハンバーグは必ずマッチ&ゴールインするだろう。

いやあ、旨い……どれもこれも、本当に旨い。
もし、いつか私に子どもができて「伯爵遊びをしたい!」なんて言い出したら――迷わず、この伯爵邸に連れてくるだろう。

窓の外に見える〝伯爵邸〟の看板を紋章のように仰ぐ。二段ベッドの居城と、平民と奴隷にひれ伏したクロ伯爵の黒い背中を重ね合わせながら、配役も入れ替り〝ド平民〟となった現在の私。
クロ伯爵は逃亡し、大人になった今の私の領地は、ここにあるのかもしれない。
伯爵邸(はくしゃくてい)
| 住所: | 埼玉県さいたま市大宮区宮町1-46 |
|---|---|
| TEL: | 048-644-3998 |
| 営業時間: | 24時間営業 |
| 定休日: | 年中無休 |


