至高の蕎麦屋飲みでススル「お店でしか出せない味」の正体/上野「翁庵」
年越しそば、食べました?
〝そばは長生きの縁起物〟だって。ええ、いい話じゃないですか。でも私は、長生きより〝今を美味しく生きたい派〟だ。美味しくといえば、テレビとYOUTUBEで聞き飽きた〝お店じゃないと食べられない味〟……あれ、実はなかなかの名言だと思っている。母ちゃんや嫁の作る、家では再現できない、あの暖簾とあの匂い、あの空気を含めての味。それが外で飲るド真ん中ってヤツよ。

東京の正月といえば浅草……の、すぐ横にある上野へやってきた。といっても、この記事を書いているのは昨年末。とある酒場へ足を運んだのは、夏の午後だった。灼熱の太陽の下、向かうは駅を出て浅草通りに入ってすぐのところ。

出たっ、『翁庵』だ! そう、蕎麦屋ですよ、蕎麦屋飲み。創業はなんと明治32年、余裕の100年企業だ。もちろん、何度か改修は行われているのだろうが、なんたって外観の迫力が違う。瓦屋根はくすんだ鶯色、二階の木枠窓は、明治の空気をいまだ吸っているように見える。隣の店がギンギンと原色を振りまいているのに、そんなものに一切媚びない感じがいい。

とりわけ、暖簾がステキだ。純白だ。まるで、古い写真に突然差し込まれたハイライトのように、白が際立つ。格子戸の向こうには、もちろん蕎麦と酒の気配。早く、早くここで飲りたい……! ゆっくりと、戸をずらします。
「いらっしゃいませ」

うわっ、中もすばらしい! 純白をくぐった瞬間、外の喧騒がミュートされる。低い天井に走る木の梁、天井の蛍光灯、壁に貼られた短冊の品書き。テーブルは年季を帯びて黒光りし、イスの脚は何度も擦られた跡を残している。奥の厨房では白衣の職人が黙々と蕎麦を扱い、湯気が静かに立ち上る。いいですねえ……余計なものが一切ないですよ。
「お二階へどうぞ」

一階は満席でおあずけとなり、女将さんに促されて二階への階段を上がる。木の手すりを握ると、手にニスのつるりとした感触がたまらない。階段は狭く、足音が響くたびに、まるで店の〝骨〟を鳴らしているようだ。
「どわっ、最高!」

と、図らずも声が漏れる二階の絶景。障子越しに差し込む光が、畳に淡い影を落とす。小上がりには座布団が並び、低い卓が律儀に並ぶ。

テーブル席は極めて素朴で、椅子の座面には〝おばあちゃん家系〟の薄い座布団が張られている。壁には色褪せた写真や額が飾られ、明治から令和までの匂いが漂っている。よし、決めた。オラ、ここで飲るダァ。

蕎麦屋飲みといえば日本酒だが、今日のこの空気には瓶ビールが似合う。生ビールじゃない、瓶ビールだ。ラベルの古臭さと、ガラス越しの黄金色が、この店の木の匂いにしっくりくるでしょう?

ごくんっ……ごくんっ……ごくんっ……、ワハハハハッ、最高だ! 外の暑さで狂ったんじゃない。この雰囲気と、ビールの旨さに狂ったのだ。黄金が喉を通るたび、体の奥で「アア……ッ!!」と叫ぶ。狂いついでに旨い蕎麦でもいただこう……いや、ここには名物が他にたくさんあるらしい。

皿にビッチリに並んだ『油揚げ甘辛煮』は、まるで薄い羽衣を重ねたような姿。ペラッとしているのに、噛めばじゅわっと甘辛の旨汁がしみ込んでいる。香ばしさとコク深さが舌に広がる。

どうやったらここまで潤いキープができるのか、自分の中年肌がこの油揚げだったらいいのに。わさびをちょんと乗せれば、甘みと辛みが交差して、至福が再び訪れる。

つづいて、こちらも名物の『厚切りの板わさ』がやってきた。白く輝くかまぼこが、扇のように切り込まれ、皿の上で鎮座している。

しかしながら、厚切りという言葉に人はなぜこうも弱いのだろう。噛めばもっちりとした食感が歯に心地よく、ちょんと付けたわさびが鼻を抜ける。いくらでもイケる。そして、厚切りは正義だ。

老若男女、人種問わず、ひっきりなしに客がやってくる。みんな、蕎麦が好きなのだ。それでも、平日の真っ昼間に酒を飲んでいるのは……私くらいか。
〝蕎麦屋で酒を飲む〟は人生と同じで、ときどき脇道に入らないとつまらなくなる。〝ベタ〟ばかりを歩いていては、この板わさのように分厚いだけの人生になってしまう。わさびをちょんと、少しの刺激が欲しい。そのロジックが、次の一品を呼び寄せる。

来た、『冷やしハムそば』だ……! 名前からして、妄想脳をビンビンに刺激する。皿の上には、冷たい更科蕎麦がきっちりと並び、その上にハム、錦糸卵、きゅうり、レタスが彩りを添える。まるで冷やし中華が蕎麦屋に道場破りに来たような光景だ。

ズルッ、ズルルルルッ──旨い! タレはめんつゆではなく、冷やし中華のスープ。これがまた、蕎麦と驚くほど相性がいい。ごまの香りがふわりと立ち、酸味と旨味がクロスロードする。

さぁて、蕎麦後の楽しみといえば、食後の蕎麦湯だが……ここで疑問が湧く。冷やし中華のスープに、蕎麦湯がやってくるのか? まさかな。鶏ガラスープとか、別の何かだろうと思っていたが……

うわっ、思い切り蕎麦湯だ!
はたして大丈夫か……? 冷やし中華のスープに、蕎麦湯がやってくるなんて考えたこともない。うーむ……こういうときは、考えるより試すしかない。蕎麦湯を中華スープに入れてみた。

結果だって? 野暮なこと聞くんじゃない、評価には個人差があるだろう。私の舌はまだ〝旅の途中〟だったということです。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
外に出ると、夏の陽射しが路地を焼き、その鉄板の上には行列ができていた。あちぃ……汗を拭きながら「これは正月に書こう」と思った自分の判断は正しい。あれから風の冷たい季節になったけれども、あの日の冷やしハムそばの記憶は、妙に鮮明だ。

来年の年末には、この〝お店じゃないと食べられない味〟の年越しそばにしよう。ええ……蕎麦湯&中華スープをもう一度だ。来年か再来年か……〝旨いは〟一度目で決めなくてよい。
そんな予感を蕎麦湯に混ぜつつ、今年もひとつ、よろしくお願いします。
翁庵(おきなあん)
| 住所: | 東京都台東区東上野3-39-8 |
|---|---|
| TEL: | 03-3831-2660 |
| 営業時間: | [月火水木金]11:00 - 20:00[土]11:00 - 19:00 |
| 定休日: | 日・祝日 |


