一度は飲ってみたい名建築の酒肴「とんかつ」編~湯島「井泉 本店」~
日本の古い建物が大好きだ。といっても、私の実家のようなトイレから水漏れしたり、隙間風で家じゅうが寒いようなオンボロ建物のことではない。名士が住んだ過去があり、国の有形文化財に指定されているような〝名建築〟のことである。元々、神社お寺やお城が好きで、観光に行けば必ず立ち寄るようにしているが、最近は特に〝近代建築〟がお気に入りだ。
明治大正昭和の大金持ちが住んでいた大豪邸、すごくいい。何がいいって、今から何十、何百年前の建物なのに、恐ろしいほどハイセンスでゴージャスなのだ。最近だと『旧朝香宮邸』や『旧前田家本邸』なんかが素晴らしかった。天井の高い、迷路みたいな洋館には超高価な調度品が並び、そのひとつひとつに華やかな歴史がある。実家にある汚れが染みついた食器や傷だらけの柱とはワケが違う。
当時の大富豪諸氏は、洋館の隣に必ずと言っていいほど和館も築造する。その和館も超絶立派で、家というか大きな神社のような造りで、これもまたエクセレント!のひとこと。
何も考えず、ただそこへ居るだけで、当時住んでいた傑物たちの〝パワー〟を貰える気がする……いや、確実に貰えている。
先日は、湯島にある『旧岩崎邸』へ訪れた。岩崎家といったら三菱財閥の名家だ。1896年に竣工、岩崎一家が千葉へ引っ越す1948年まで住んでいたのだというから、モロの近代日本を過ごした建物だ。内部の写真は控えておくのだが、まぁ思った通り、いやいや、それ以上の豪邸だった。中でも二階にあるテラスから眺める広大な庭は圧巻だ。東京大空襲の時には、その庭を近隣住民の避難所として開放したというから、そのデカさを想像できるだろう。隣接する和館も「嘘だろ?」と思うほどに広く、終始「ここに住みたい住まわせてください!」と懇願していた。
本館から地下通路を通って、庭にあるビリヤード場に行けるってどんな大豪邸だよと、ため息ばかりだった。
名建築から〝パワー〟を貰うと言ったが、これと似たようなことがもうひとつある。そう、大衆酒場だ。人々に使い倒されたテーブルやイスに食器、壁や棚ひとつとっても歴史がある。古い大衆酒場には、近代建築や神社お寺のように、名建築は〝パワー〟を放っているのだ。私が古い大衆酒場好きなのは、完全にこの理由があるからなのだ。
旧岩崎邸からもらった〝パワー〟漲るその足で、やってきたのはやはり名建築の老舗店、しかも〝とんかつ屋〟である。
湯島の『井泉 本店』は、1930年創業とこちらもとんでもない長い歴史を誇る。見よ、この名建築然とした佇まい。花街風情が残るモルタル二階の建物、瓦の軒天の上には可愛いブタちゃんイラストと共に〝井泉〟が大書されている。
思わず〝鳥居〟という名の美暖簾の前で、神社の様に拝みたくなる。パンパンと柏手、お辞儀して中へと入った。
「いらっしゃいませ」
まずは目に飛び込んできたのは、カウンターと会計用の小窓だ。いいですねぇ……着物姿の女将さんがまたいい。そして奥にはさらに素晴らしい座敷がある。
うっほ! 10畳ほどの開けた畳部屋に、料亭的照明が素敵でたまらない。なんという名称なのか分からないが、おそらく中庭を見せるための窓が、壁の下半分にずらりとはめ込まれている。カラシ色の壁紙が、何とも言えない〝和〟を帯びている。
神楽坂の『カド』もかなりよかったが、ここはまた上野らしいハイセンスな雰囲気だ。あーもうダメだ、早く……早くこの名建築で飲りたい!
畳に胡坐をかいてお行儀よくと待っていると、女将さんが例の物を持ってきてくれた。ここはもう瓶ビールでしかないでしょう。壁の半窓を背に、瓶とグラスがなんとも情緒的じゃないか。いっただっきまぁす!
ぐびんっ……ごくっ……ごくっ……、つっはぁぁぁぁぁ日本建築さいこぉぉぉぉ!! パワーだ、やはり名建築からはパワーが漲っている。さぁてと、ではこのとんかつ屋ならではの酒肴からいただきましょうかしらね。
はい出ましたー『カニと胡瓜のサラダ』ですよー。丸い透明皿につんもりと乗った胡瓜の山。そこにカニの身が合わさり、軽くマヨネーズが絡んで独特の色味を発している。
短冊の細切りとでもいうのか、独特なキュウリの食感がいい。サキッサキッとした食感の中に、ほのかなカニの味、やらしくないマヨネーズの量とが完璧にまとまっている。
名建築といっても〝とんかつ屋〟ですからね、とんかつイカなきゃダメ、ゼッタイ。奮発の『特ロース』の美しきことよ! 真っ白の皿に、これでもかと分厚いとんかつが鎮座し、その傍らではこんもりとしたキャベセンという、まったく間違いがないとんかつ皿である。
〝箸で切れる〟という、分厚いカツを一切れをガブリ……柔らかいっ! これはそうとな柔らかさ、箸どころか上顎と舌で挟むだけでも蕩けるように肉が切れる。肉汁がね、とんでもなく溢れて口の中で洪水を起こしている。それをジュルリと飲み込みつつ、キャベセンでさっぱりと流し込む。なーんだ、これまでで最高のとんかつじゃないか。
ふと、味わっているときに見える障子、欄間、畳の手触り……私は今、とんでもないところで、とんでもなくおいしいものを食べているのだと、心の奥にモジモジと込み上げる嬉しさがたまらない。そんなところへ──
遂に出た、井泉名物『三色サンド』だ! 茶、黄、緑の三色カラーが、なんとも鮮やかで画ヅラ最高。サンドイッチで飲らせようというのが、江戸っ子らしい都会的な粋ってやつよ。
タマゴから喰らいつくと、パンの間からもっちゃりと玉子サラダがハミ出てくる嬉しさ。この玉子サラダの旨味の〝パンチ力〟といったら、ステーキとだって張り合えるほど濃厚だ。
先ほどのカニと胡瓜サラダが、今度はパンに挟んじゃったっていうから困っちゃう。サラダオンリーでもおいしいが、パンに挟むことによってその歯触りをより明確に楽しめる。実は、子供の頃はキュウリとパンの組み合わせが嫌いだったのだが、それはこれを食べたことが無かったからだと判明した。
そして元祖カツサンドだ。驚くこと勿れ、我々が子供の頃から食べ親しんでいるカツサンドは、この井泉が最初なのだという。ハムの間からパリッとした衣、そのままジュワリとカツの肉汁がパンに染みわたり、こちらもとんかつオンリーではなかったウマさを楽しめる。日本中どこにでもあるカツサンドの原点を、今まさに味わっているという優越感に浸るのだ。
1930年創業っていってたな……当時、ここの界隈で働いていた芸者さんたちも、同じようにここでカツサンドを食べていたのだろうと思うと、胸が熱くなってしょうがない。これぞ〝パワー〟だ……私は今、名建築からパワーを貰っているのだ。
目の前の廊下をおそらく修学旅行だろう、数人の中学生が通って会計をしていた。って、修学旅行の自由行動で井泉を選ぶって……きっとこの子たちも、将来私のような呑兵衛……いや、名建築好きになることだろう。私の実家も、修学旅行生が訪れるような建物になってくれないだろうか……と、くだらなぬ想像しながら、ここからすぐ近くに『湯島天神』があることを思い出した。
何度か訪れたことがあるが、神社という概念を超えた名建築だ。一体、いつからあるのか調べてみると──458年創建! さすがに今から1500年以上前の人々はこの店のカツサンドどころか、豚肉さえまだ食べたことがなかったのだろう。
そう思ったら、無性に豚肉が愛おしくなり、追加でカツ丼を頼んだりしちゃったりなんかして。
〝パワー〟いただきます。
井泉 本店(いせん)
住所: | 東京都文京区湯島3-40-3 |
---|---|
TEL: | 050-5456-1802 |
営業時間: | [平日・土]11:30~20:50[日祝]11:30~20:30 |
定休日: | 水曜日(祝日の場合は営業) |