2023年７月に起こった秋田豪雨災害。当時、ニュースやSNSで見て〝えっ……嘘だろ？　えっ、あそこがこんなことに……？〟などと、見慣れた光景の豹変ぶりに目を疑い、心を痛めた。

それから年を跨いで2024年の３月に帰郷。幸いなことに我が家のある地域は被害はほぼなかったようだが、秋田駅の周辺はかなりの被害があったとのこと。

 

特に気がかりだったのが秋田イチの繁華街『川反』のすぐ横を流れる『旭川』だった。ライブカメラを見ながら、いつ氾濫を起こすかわからない……いや、もう建物の一階のほとんどが浸水して、川沿いの歩道も陥落していたことにショックを受けた。

その名残がある歩道を横目に、私は川反へ訪れた。もちろん、酒場のため。ここで酒を飲むことが、私にできる唯一の支援なのだ。

 

おほっ、『千秋小町』も健在ですね。思っていたよりは、街の様子や酒場に変化がないことに安心する。

 

さて、それならばと向かったのが、以前から気になっていた酒場『味美』だ。川反に入ってチョイ、チョイと脇道に入ると……

 

すっご！　まずはこの酒場の外観……というよりは、酒場のある場所だ。これはなんと説明すればいいのか、古い家と家の隙間に屋根のある短い通路があって、そこに店の入り繰りがあるという、何とも奇妙な造りなのだ。おそらくは、ここもかつては『千秋小町』の通路の様な場所だったのでは……想いを馳せながら暖簾の前に立つ。

 

いいですねぇ、立派な藍暖簾を引いて中へと入る。

 

「いらっしゃいませ～！」

 

飛び込むと「し」字に曲がったカウンターと小さな小上がりだけがある極詳サイズの小料理屋風の店内。大将、若大将、女将、若女将が小さなカウンターで切り盛りしている。その四人と数人の客だけで、ワイワイと盛り上がっている。

 

壁やカウンターなどの目に入るところにメニューは見当たらない。そして店内のBGMは大相撲……これぞまさしく地元密着の大衆酒場。川反にもこんなところがあったのか。空いているカウンターに座って間もなく、女将さんが私の横に立ってクイクイ、と灰皿をパタパタさせる。ああ、たばこは吸うか？と訊いてきたのか。丁重にお断りして、私はやはり酒だ。

 

やって来たのが黒ラベルの瓶。私が勝手に呼んでいる、小さな切子グラスの〝婆ちゃんちのグラス〟へ麦汁を満たしてやる。

 

とくんっ……とくんっ……とくんっ……、すたげうめどとてもおいしいっ！　愛飲しているホッピーがあまり浸透していない秋田だが、こうして小料理屋風のカウンターで飲むビールはやはりたまらない。見当たらないと思っていたメニューが、カウンターの隅っこに黒板で書いてあることに気づく。

 

穴子白焼き、生にしん焼き、ブリ大根……値段が書いていないのが怖いが、魅力的な名前が並んでいる。どれからにしようか……

 

まずはお手柔らかに『ホルモン煮込み』からお願いします。濃い目の茶色ではないクリーミーなスープに、豚のホルモンとコンニャクがシンプルに浮かぶ。

 

クニッとした歯触りに、上品かつ濃密なスープがよく染み込んでいておいしい。最近になってやっと気が付いたが、秋田はもつ煮込み文化が相当発展している。子供の頃にもつ煮込みなんて食べた記憶がないが……いや、素晴らしいことです。

 

刺身の選定にだいぶ迷ったが『アジ刺身』を選んで正解だった。大振りにブツ切りされた身に、ネギがぱらりと美しいですよ。

 

弾けるような身は脂で艶々と輝き、ひと口食べればそのたっぷりの旨脂で口中が満たされる。やはり日本海のアジは身が引き締まって最高だ。私のだらしない身体のようなアジではこうはいかない。

 

「あら、そうなんでかセンセイ？」

「センセイ、こちらの料理はいかがです？」

 

飲やりはじめてから、ずっと気になっていたのが隣の客だ。大将や女将さん、ほかの客らとの会話で何度も〝センセイ〟と呼ばれているのだ。確かに立ち振る舞いも、どこか凛としている。話題は回転寿司で、このセンセイは回転寿司に行ったことがないらしく、周りは『かっぱ寿司』を勧めていた。どこかで見たことがあるような、無いような……

 

そのセンセイが食べていたある料理・・・・が気になって同じものを頼む。待っている間に、その相方として迎え撃つに相応しいであろう、秋田の銘酒『飛良泉』の冷酒を注文。

 

これがまた、甘過ぎず辛すぎず、決して料理の邪魔をしない絶妙な味わい。それをいっちょ前にチビチビと飲やっていると、そのお相手がやってきた。

 

こいつは美しいが過ぎる『銀タラ焼』だ。甘じょっぱい香りとテリテリの艶肌。そこへ抱き着くように矢生姜（はじかみ）がなんとも色っぽい。この身を丁寧に解いて……

 

うんめ──！　滋味ある西京味噌の香りとコク、それがしっとりと身に移っていて極上の味わい。これを割り箸の先で解いてチビチビと、そして追うように飛良泉をチビチビと……ああ、たまらねぇ。最後に皮をチビチビとやれば、皿を舐めたかと思うほど綺麗に完食するのである。

 

「これはおいしいね」

「そうでしょセンセイ、瀬戸内では食えないでしょ？」

 

若大将は、昔は安く出すことが出来たと言えば、間髪入れず若女将が「今は高級魚！」と乗っかる。センセイ、瀬戸内の方から秋田まで来たのかな？　そんなことをウンウンと考えていると、「センセイ、遅れてすいません」と今度は年配の夫婦客が店に入って来た。それからまた一人、二人と続々と集まるセンセイの知人たち。謎は解けないが、宴が始まるようだ。そろそろ会計をしましょうか……

帰り際、席を立った瞬間だった。隣のセンセイが突然話しかけてきた。

 

「秋田の人じゃないでしょ？」

「えっ？」

 

思ってもいなかった問いかけに、暫く固まる。なんせ、センセイが発言したものだから、大将たちや客らも私に注目しているのだから。帰郷していることを伝えると、

 

「いやね、すごく綺麗に料理を食べるとな思って」

 

実は私、それをとても意識して酒場で飲やっていることなのだが、まさかこんなところで気が付いて貰えるなんて思ってもいなかった。特に一人の時は〝行儀よく飲やる〟ことを、誰に言うこともなくやっていたのが気が付いてもらったことは相当うれしかった。

 

「この店、テレビ観てきたの？　最近NHKで取り上げられたからさ」

「あ、じゃあセンセイもNHKの方ですか？」

 

さりげなく、私も〝センセイ〟と呼んで訊ねてみると、

 

「いいえ、ただの常連……ですよ。フフフ」

 

と、不適に笑うセンセイ。その何かを含んだ表情が、堪らなく格好良く見えた。著名な学者さんか、それともどこかで一緒になった飲み屋の常連客だったかもしれない。謎は解けなかったが、これからは料理を綺麗に食べるのと、それを言われた時には不適な笑い方で返すことを酒場でやってみますよ、センセイ。

 

こんな平和な街に、甚大な被害を出した秋田豪雨。

それでも、こんなありふれた酒場の時間が、さりげなく在ることに感謝しかない。