
酒とシジミと山陰と、宍道湖のほとりでしっぽりと/松江「有希」
私は鳥取と島根の方々に、常々思っていた〝疑問〟がある。それが〝地方名〟である。
そう、鳥取と島根の地方名といえば〝山陰地方〟になるのだが……これ、ちょっと待ってくれ。なんなんだよ山〝陰〟ってのは?
近畿地方から山口県の中心に連なる〝中国山地〟を中心として、日本海側の鳥取と島根は山〝陰〟で、その反対の瀬戸内側の岡山・広島・山口は山〝陽〟って……勝手に決めるんじゃないよ! 何故、日本海側が〝陰(かげ)〟にならなくちゃいけないのか。
私のカンだが、昔の偉い人が地方名を決める時に、
「やっぱ〝陽〟は瀬戸内っしょ、都会だし!」
「日本海側ってパッとしないし田舎だよなあ……じゃあ〝陰〟でよくね?」
みたいな? ノリで? 決めたんじゃないか? と、踏んでいる。私も同じ日本海側出身者として、そんなの憤りしかない。
なにより〝陰〟という文字は、どう考えたってマイナスなイメージだ。陰湿、陰キャ、陰謀からはじまり、陰〇、陰△、陰□などド下ネタを代表する一文字。唯一この文字でいいイメージは〝陰性〟くらいか……とにかく、自分の住んでいる地域にこんな文字を割り当てられて、なぜ黙っていられるのか……疑問でしかないのだ。
そんなモヤモヤとした気持ちで島根にやってきた。無論、目的は酒場であり、酒場でしかない。宵闇の松江の繁華街は、名湖『宍道湖』というまさに湖畔の雰囲気をどことなく醸し出しつつも、決して派手ではなく〝奥ゆかしい〟賑わいがたまらない。
そんな奥ゆかしさの一角に──おや、好みの外観を見つけたり。
ムムッ、これは……スナックか? いや、おでん酒場『有希』だ。周りはスナックやキャバクラの店ばかりの中にこの佇まい。
普段はお水系の店に行かない私は、店先の立て看板と小さな茶暖簾だけがホッとさせてくれる。シブい店とはまた違った入りづらさだが、気合を入れて入ってみよう。
おおっ、中は立派な大衆酒場! 半分は磨かれた白木の長いカウンターと、もう半分は小上がり。うわあ、こんな雰囲気がちょうど大好きなんだよなあ。
カウンターに座るなり、
「今、おでんがないんですけど、いいですか……?」
と美人女将が仰る。確実におでんがおいしい酒場なのだろう。最近の私の酒場メニューブームがまさしくおでんなだけに、ちょっと惜しい気分だ。その惜しさを流し込むため、まずは酒だ。
地方で『プレーンチューハイ』を見つけると、必ず試してみることにしている。チューハイはその地域でいい意味の認識齟齬があって面白いのだ。
ごくんっ……ゆきりんっ……ごくんっ……、あっ、これは甘い系のプレチューだ! 東京でチューハイと言ったら間違いなく無味無臭に近いが、たまに乙類の焼酎に味の付いたタンサンで割った、それこそスナックでよく飲む甘いチューハイがある。こちらもそうだが、これもこれで、なんか好き。お料理、いただきましょうか。
まず運ばれてきたのは『お通し』。一品だけじゃないお通し、イイ。蟹味噌のほぐし身は、ひと口で海の濃厚な香りが広がる。蟹味噌の旨味がしっかりと主張していて、思わず酒が止まるほど。
玉子焼きは優しい甘さで、蟹味噌の余韻を包み込むように口の中を整えてくれる。そして、ほうれん草とシーチキンの和え物。
これを口にした瞬間、ふと忘れていた記憶が蘇った。子供の頃、母がよく作ってくれたあの味。懐かしさが舌にじんわりと広がる。
次に出てきたのは『鯖のたたき』。カツオじゃなく、サ・バ! 見た目も食べ方も、まるでカツオのたたきのよう。ですから、もれなく薬味とポン酢でいただく。
旨い!──鯖の脂が程よく乗っていて、カツオとはまた違ったコクがある。馴染みのある食べ方だからこそ、ある意味安心して味わえる一品だった。
客は私のみ。しかし、本当にスナックみたいな名前の店だ。そういえば、小学校の頃に有希ちゃんという女の子によく泣かされていたなあ。とんでもなく口が達者なヤツで、思い出すとムカムカする……いや、ここの〝有希ちゃん〟は……奥ゆかしそうだ。
ちょっぴり奮発『フグの唐揚げ』。これまで何度か食べたことはあったが、どれも小ぶりで少しパサついていた印象が強かった。
しかしながら、今回は違った。肉厚な白身で、噛むほどに旨味が溢れる。山口県(山陽勢)が近いからだろうか、素材の良さが際立っていた。外はカリッと、中はふっくら。奮発した甲斐がありましたねえ。
松江で頼まないわけにはいかない『シジミの酒蒸し』は、意外にも〝甘い〟スープが印象的。しじみの旨味が酒とともに溶け出し、口に含むとじんわりと染み渡る。まるで体の奥から癒されるような、そんな優しいママのような味わい。
この甘さが、プレーンチューハイのすっきりと中和している。あと、この青い器の柄もいい。シジミになんだかピッタリだ。
久しぶりだな、こんなにゆっくりと、しっぽりと飲るのは。ここが山陰だからか、奥ゆかしい気分でもう一杯だけプレーンチューハイをいただき、心残りだったおでんを想いつつ店を後にした。
シジミが大いに気に入り、それが採れるという宍道湖へと向かった。
店からはまあまあの距離だが、ほろ酔いでね……すごく気持ちがいい。
宍道湖のほとりに辿り着く。
なんとういう、美しさ。さらに奥ゆかしい雰囲気──もあるが、ほんのりと霧がかかっていてホラーゲームの『サイレントヒル』を髣髴とさせる。
「〝陰〟……だなあ」
みるみるうちに日が沈み、なんだか底知れぬ〝陰っぽさ〟を感じるのは私だけだろうか。なんにせよ、その〝陰〟というのも悪くない。華やかな〝陽〟の影に隠れながら、そこには、目には見えないけれど確かな温かさと、じっくりと熟成された気配が静かに息づいている。そんな風に考えると、少しだけ、この〝陰〟という名が、愛おしく思えてきたのだった。
そのうち、島根か鳥取で出会った誰かに〝山陰〟の地方名について、どう思っているのか訊くのを楽しみにしよう。
あっ、山陰の名づけの意味を知っている有識者は教えてくださいませ。
有希(ゆき)
住所: | 島根県松江市伊勢宮町525-7 |
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TEL: | 0852-27-6161 |
営業時間: | 17:30 - 23:00 |
定休日: | 日・祝日 |