せんべろ「幻想」時代に値段なき品書きの「時価べろ」を/三島「大しま」
〝金〟というヤツは、実に不自由なものだ。かつて、我々呑兵衛にとっての千円札は、酒の国への片道切符だった。いわゆる〝せんべろ〟という言葉が巷を席巻していた時代、三千円もあれば、この世の極楽をひと通り舐め回すことができたはずだ。
しかし、なんということでしょう。昨今の物価高とやらは、我々のささやかな聖域を土足で踏みにじっている。体感的に言えば、かつて三千円で済んでいた宴は、気づけば四千五百円に膨れ上がっている。少し背伸びをして割烹の暖簾をくぐろうものなら、五、六千円は瞬く間に消えていく。もはや〝はしご酒〟なんてのは、一部の選ばれし金持ちか、あるいは明日を捨てた泥酔者のみ許される、高尚な道楽に成り果ててしまったのではないか。

財布の厚みを気にしながら飲るのが、果たして旨いのか。そんな自問自答を繰り返しながら、私は沼津・三島の旅の終着点に立っていた。東海道新幹線がホームに滑り込んでくるまでの、わずかな時間。その幕引きにふさわしい酒場を、私は三島駅のすぐそばで見つけてしまったのだ。

出たっ、『大しま』だ!夜の帳に浮かび上がる、整然と並んだ緑のタイル。そこに〝大しま〟という三文字が潔く躍る行灯が見えた瞬間、私の酒場センサーは確信を持って正解を告げた。

軒先に無造作に置かれた自転車と、年月を経て角が取れた看板。これこそが、長きにわたり地元民の日常と業を支えてきた証左だ。気取った装飾や、客を媚びるような派手なポスターなど一切ない。ただ美味い魚を食わせるという店主の静かな意志だけが、建物の隙間から滲み出ている。この無骨な佇まいを前にして、素通りできる呑兵衛など、この世に存在するはずがない。そのひとりが私です。
「いらっしゃいませ」

いいですねえ。暖簾をくぐれば、そこは時間の流れが外界とは異なる、濃密な空間だった。整然と並んだ常連たちのボトルキープ棚と、幾多のドラマを見守ってきたであろう年季の入ったカウンター。

私は奥の座敷へと案内され、今夜の酒座となった。
壁の品書きを見た瞬間、私の背筋に心地よい緊張が走る。そこには魅力的な料理名がズラリと並んでいるが、肝心の値段が、どこにも、一切、記載されていないのだ。

もしかすると……いや、きっとあったのかもしれないが、どうしても見つからなかった。いや、これこそが、地方の老舗酒場で稀に出くわす、あの剥き出しのストレート勝負。財布の紐と、酒欲。その狭間で揺れ動く己の卑しさを楽しむ、贅沢な心理戦の始まりだ。
肚を決める瞬間、酒場はただの飲食店から、人生の縮図へと変貌する。その不確実性こそが、今夜の最高の刺激になるのだ。

まずは渇いた喉を黙らせるべく、氷結ラベルのレモンサワーを注文する。運ばれてきたグラスは、照明を反射して美しく輝いていた。

ごくんっ……ごくんっ……ごくんっ……、ううううんまっ! 強炭酸の刺激が、渇いた喉の粘膜をスカッとリフレッシュしてくれる。冷えたグラスが手のひらに吸い付く感覚がたまらない。沼津から三島へと続いた旅の終わりの緊張が、冷たい飛沫と共にゆっくりと解けていく。まさに心地よい、至福の一打席目。これさえあれば、値段のないメニュー表など、もはや恐るるに足りない。

前日から沼津と三島の酒場を巡ったが、不思議なことがあった。どこの店に行っても、客たちがひと口運ぶごとに「うまいなあ……」と嘆息を漏らしていたのが、この『カンパチ』だったのだ。

ならば、ここで満を持して注文するのが呑兵衛の筋というもの。運ばれてきたのは、新鮮な輝きを放つ、厚切りの身。醤油を少しだけ潜らせて口に運べば、思わず私も「うまいなあ……」と独白していた。なめらかな舌触りと、噛みしめるほどに溢れ出す深みのある甘み。唇が、その圧倒的な旨味に感動で震えているのが自分でも分かる。これは、海の神様からの思し召しだ。

鶏の唐揚げをイメージしていた私の前に現れたのは、想像を絶する見事な形状の『ふぐの唐揚げ』だった。サクッと揚げられたその身は、初めて見る凛とし勃ち姿。香ばしい衣の中に、ふぐの繊細なうま味がギュッと閉じ込められている。

尻尾まで、骨の髄まで、全てを食べ尽くせる野趣あふれる絶品。まさに「ヒレ揚げ」とでも呼ぶべきか。白身の気品ある風味が口いっぱいに広がり、酒を加速させる。
「わっ、何!?」
「え、なになにー?」
奥の座敷の電気が突然ふっと消えた。何事かと身構えたが、次の瞬間、暗闇の中からゆらゆらと揺れる灯火と共に、立派なホールケーキが登場した。こんな渋い老舗酒場の座敷で、あえて誕生日会を催す家族と友人たち。おしゃれなイタリアンでもフレンチでもなく、魚の脂の香るこの場所を選んだ彼らのセンスに、私は心からの敬意を払わずにはいられない。
酒場とは、ただ泥酔するためにあるのではない。誰かの大切な人生の一頁を、最も安らぐ形で祝うための、安心する場所なのだ。その温かな拍手の音を聞きながら飲む酒は、何よりも贅沢なアテだった。

たとえ今夜の支払いが、新幹線のチケット代を上回ろうとも、これだけは食べようと決心していた。運ばれてきたのは、照り輝く特濃な煮汁を纏った、堂々たる『金目の煮つけ』。その神々しい姿は、私のテーブルの上でも、今まさに〝特別な日〟が始まったことを告げていた。

濃厚なコク。そして、舌の上でとろけるような、遠慮のない脂。甘辛いタレが芯までしみ込んだ身を解せば、それはもはや言葉を失うほどの極うまな体験だ。新幹線を一、二本遅らせてでも向き合うべき、三島の旅のクライマックスにふさわしいごちそうであった。
「金目鯛、めちゃくちゃおいしかったですよ!」
「あら、よかった。ありがとうございました」

カウンター席にいた大女将にご挨拶。会計は確かにかつての〝せんべろ〟の数倍近かったが、結局のところ、どれほど高いからという現実を突きつけられたとしても、この瞬間の悦びに代わる価値など、私は答えることが出来ない。
財布が空になることなど、恐るるに足りない……といえばハッタリかもしれない。それでも、この一杯、この一皿のために、私は明日からも不器用に生きていくのだと、改めて自分に言い聞かせる。

さて、三島大社様へお参りに行く時間は一秒も残っていなかった。それは三島の神様が「じゃあ、また飲みに来い」と仰っているんだと信じつつ、沼津・三島の旅を締めくくろう。
大しま(おおしま)
| 住所: | 静岡県三島市一番町14-11 |
|---|---|
| TEL: | 055-971-1919 |
| 営業時間: | 17:30 - 23:00 |
| 定休日: | 日 |


