「太っているのは今のうち」恐竜の街の名文句/福井「味処 庄屋」
昨年、とあるひとり旅でのちょっとした出来事。
旅の宿は屋根さえあればどこでもいいと思っているタチなので、普段は安くてボロいビジホを選んでいる。ただ、その町にはビジホがなかった……というよりは、あってもちょっと高いビジホで、到底そんなところに泊まるワケがない。さてどうしよう、と思いついたのが民宿だった。
民宿は島旅であれば必然的に使うのだが、本島で使うのはおそらくはじめて。風呂なし六畳一間の古い和室。正直、だいぶボロだったが、そこの主人や女将さんはとても良くしてくれて、なんでも丁寧に案内してくれた。
「共同のトイレは使う時は電気をつけて、出るときは消してくださいね」
夕方五時。私は酒場へ向かう前に用を済ませようと、そんな主人の言葉を思い出した。共同トイレに向かうと、なるほど、確かに電気は点いてない。クリーム色のカバーに黒のカチカチやる昭和なスイッチを入れて電気を点けてから中へ入ると、左手に大便器がふたつ、右手に小便器がふたつあり、便所サンダルが三つならんでいた。用を足してから、スリッパを脱いで電気を消して、いざ酒場へ向かった。
数時間後に民宿に帰って来た。少し飲み足りなかったので、酒と軽いつまみを買ってきて、部屋の小さなテレビを観ながらダラダラしていた。夜中の十二時くらいになってそろそろ寝ようと思い、共同トイレに向かった。部屋のドアを開けると、廊下を挟んで向かいの部屋からおっさんの咳が聞こえた。酒場へ行く前に民宿内を散策したのだが、この日、私以外の宿泊客はその部屋だけだった。雰囲気的に、その部屋にはおっさんがひとりで泊まっている様子。
共同トイレの前に着くと、あることに気付いた。電気が点いていたのだ。「あれ、誰かが入っているのか」と思いつつ中へ入ると、右手の奥の大便器のドアが閉まっていた。足元のスリッパは三つからふたつになっている。やっぱり誰かが用を足しているのかと思って、私も小便器に立って用を足した。
水を流してスリッパを脱いで出ようと思ったが──何か、妙に背後が気になって振り返った。
さっきまで閉まっていた大便器のドアが少しだけ開いていて、中はかなり薄暗くなっている。が、そのまま目線を下げると、その薄暗い隙間、床からほんの10センチほどの高さに、おそらく子供の目がふたつ、私の方を見つめていたのだ。
絶対に在り得ない高さに浮かぶ、目……「あ、これは普通じゃない」と思い、私は何事もなかったかのようにドアを閉めて、電気も消さずに部屋へ戻った。
いや、もしかして……向かいの部屋にはおっさん以外に子供がいたのかもしれないと、しばらくドアの近くで耳を澄ませていたが、それらしき出入りの音はなかった。
そうなんです。私、ちょっとだけソッチ系が見えたりするのです。
──で、今回の福井旅行で迷ったのが『東尋坊』だった。最近は風評的な観点から誰も言わなくなったが、東尋坊は全国的に〝自〇名所〟で有名だ。それ故に心霊スポットとしての認知度が高いようで、私も何度も話を聞いたことがある。そんな場所に私が行っても大丈夫なのか……いや、でも普通に観光として行ってみたい。

それで行ってみたのだが、全然、心霊的な雰囲気はなにも感じなかった。それより人がめちゃくちゃ多くてびっくり。もっと人気のない雰囲気かと思ったが……イメージってアテにならないものですよ。

ただ、心霊的な怖さはないが、物理的な怖さは半端じゃない。「いや、ここは柵必要でしょ!」思わず声に出るほど、見物範囲が断崖絶壁に近い……いや、近すぎるのだ。

まあ、そのスリルこそがこの東尋坊の魅力なのかもしれないが、自〇といわれる半分くらいは意図しないものなんじゃないかと疑うレベルである。

なんにせよ、東尋坊は福井を代表する観光地であることを再認識しつつ、続いては福井を代表する酒場探しのはじまりだ。

夜の福井市内にやってきた。これまた、思っていたよりも福井の〝恐竜推し〟が凄く、駅前周辺は白亜紀の如く恐竜に支配されている。ティラノサウルスに見送られ、元町商店街のアーケードを進んでいると……

出たっ、ショウヤノサウルスだ! ……いや、『庄屋』だ! アーケードのなかに突如として現れる、この威風堂々たる佇まい。モルタルの建物全体から滲み出る熟練感が凄まじい。鮮やかな黄金色の暖簾に抜かれた〝味処〟の黒文字、そして軒先から下がる地産地消の緑提灯。この完璧な正解酒場のルックスを前にして、足を踏み入れない呑兵衛など存在するはずがない。

店先のホワイトボードに目を向けると……
〝秋刀魚はこれから痩せていきます〟
こんな寂しげな、そしてあまりにも正直な料理の勧め方ははじめてだ。その切なさに胸を打たれながら、私は暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」

暖簾をくぐれば、そこは外界の恐竜推しとは完全に遮断された、濃密な空間だった。使い込まれたカウンター席と、その反対には小上がりの座敷。無駄なものは一切排除された落ち着きのある民芸風内観が、幾多の酔客のドラマを見守ってきた歴史を物語っているようだ。
まずは渇いた喉を黙らせるべく、瓶ビールを注文する。よく冷えたグラスに注ぎ、一気に煽る。

ごくんっ……ごくんっ……ごくんっ……、かぁぁぁぁウマスギルザマウス! 氷河期のように冷たい黄金色の液体が、渇いた喉の奥でマグマのような熱い歓喜を呼び起こす。見事に喉が噴火したところで、肴に移ろう。

まずはお通しの『煮物』から。まいたけ、油揚げ、そして高野豆腐が煮汁をたっぷりと含んで運ばれてくる。ひと口運べば、出汁の効いた優しい味が口いっぱいに広がる。

高野豆腐って普段自ら進んで食べないが、たまにお通しで出される高野豆腐がめちゃめちゃ旨いというのは、私の中の永遠の謎である。しみ込んだ味が身体中に染み渡る、味わい深い逸品である。

続いて、福井の郷土料理である『たくあん煮』だ。これははじめての味わい。まさしく、たくあんと大根煮の間をいく見事なバランスだ。

煮詰めることで甘みが増した大根の食感と、たくあん本来のしょっぱさが絶妙に融合している。このコク深い味わいが、ビールや日本酒を無限に要求してくる。

海産物国に来て彼らを外すわけにはいかない。『刺身の盛り合わせ』がやってきた。甘海老、タコ、カンパチ、赤身、大トロ、真鯛、サーモンが所狭しと並べられている。

最近は、器に盛られた状態で〝これは逸品〟かどうかが分かるようになった。ひと口運べば、とろけるような口どけのあとに、新鮮で濃密な甘みが爆発する。福井の海の神髄に触れた瞬間であった。

ふと目の上には、黒板にきれいな字で書かれた「今日はコレです」のおすすめ。値段は書いていない。ただその代わりにもっと重要な情報をさらりと添えてある。『皮ハギ』は〝人気No.1 肝たっぷり〟……うわ、肝食いてえ。『穴子』は〝天ぷらか一夜干し〟って、穴子の一夜干しってなんだ?『秋刀魚』は〝太っているのは今のうちだけです〟……そうだ、秋刀魚を食べるんだった!

店先の看板にあった『秋刀魚の塩焼き』を大至急頼む。よかった……まだ太っている! 堂々たるその姿は、例の看板に書かれた寂しさなど微塵も感じさせない。最近、いわゆる〝苦いところ〟が大好物になった。香ばしい皮目と、コク深いうま味がギュッと閉じ込められたその身は、酒を猛烈に加速させる。極うまのごちそうであった。
ああ……この太ったままの秋刀魚を、私の太った身体に入れて持ち帰りたい。
すっかり満足して店を出る。東尋坊の断崖絶壁も、民宿のトイレの不気味な目も、たしかに恐怖体験だった。しかし、今夜思い知らされた本当の恐怖は別にある。あんなに極太の秋刀魚が、また来年のこの時期まで待たなければならないという残酷すぎる現実だ。いや……恐ろしい。これだから酒場巡りはやめられない。

今でも鮮明に思い出す、あの銀色のフォルムに浮かぶ秋刀魚の、目。きっとまた来よう。
味処 庄屋(あじどころ しょうや)
| 住所: | 福井県福井市中央1-12-3 |
|---|---|
| TEL: | 0776-23-0915 |
| 営業時間: | 11:30 - 22:00 |
| 定休日: | 日 |


