溝の口「十字屋」センパイレゾンデートル
おそらく、酒場ナビの記事において一番使われているであろう言葉が《先輩》なのだが、この先輩というのは、どの酒場にも必ず棲みついている、所謂〝常連客〟のことで、我々酒場ナビメンバーは、その紳士淑女に対して最大級の敬意を払ってそうお呼びしているのだ。
はじめての酒場、特に地域限定の小さな酒場へ訪れた際は、その先輩らに取り囲まれることも暫しあり、そんな時に先輩から「どこから来たんだ?」などとひと言を頂戴したときには心躍り、盃を傾け合ったりなんかすれば、〝また来よう〟という気持ちになる。そうなのだ、先輩は酒場にとって常に重要な存在なのである。
『西口商店街』
令和元年の年末、私は神奈川県溝の口にいた。溝の口駅の西口を降りてすぐ、レトロなアーチがあるのだが、大衆酒場ファンにとってこれを潜ることは、子供がディズニーランドのゲートを潜ると同じくワクワクする瞬間だ。
アーチを進んで間もなく、そこには名酒場が集まるテーマパークが広がる。他にも、時代に取り残されたような古本屋や八百屋なんかも逞しく営業しており、それを眺めながら歩いていると、今が令和だということを忘れてしまいそうになる。そこから抜けると、今夜の酒場がある。
『十字屋』
レンガ調の大きな雑居ビルの一階入口に、〝十字屋〟と店名が彫られた扁額が掛かる。田舎にあるちょっとだけいい料亭のような店構えが、どことなく懐かしさを覚える。16時の口開けと共に暖簾を割った。
「いらっしゃいませー」
4名の女将さんが出迎えてくれる。先に飲っている先輩は数名、私はほぼ貸切状態のテーブル席へと座った。
広いッ!! なんちゅう大箱なんだ。店の奥にも広々としたテーブル席がある。私はこういう広い酒場が大好きだ。
達筆な青字の料理名に赤字の値段が美しいメニュー札。それが壁中いっぱいに張られており、何を頼んでいいか嬉し困る。とりあえず、目の合った『かりん酒ソーダ割り』を女将さんに頼んだ。
『かりん酒ソーダ割り』
甘酸っぱいかりんは、のど越しさわやか。日替わりのお通しのさつま揚げが、ほんのり温かくておいしい。
「ブリの良いのが入ってるからね」
大量にあるメニュー表とにらめっこしていると、ひとりの女将さんが『ブリ刺し』を勧めてきた。ちょっと値は張るが、おいしいと言うのでそれを頼んだ。
『ブリ刺し』
おぉ、これはウマそうだ! ピンッとカドの立った身は薄ピンク色に朱色のコントラストが美しい。箸で持つとネットリと重い。タップリのワサビと一緒に醤油を潜らせて一気に口へ入れる。ひんやりとした舌ざわりから、あっという間に口の中で溶け、脂がスーッと喉を滑り落ちる──ンまいッ!! 今まで食べてきたブリの中でも、断然ウマい!
『味噌ナス』
テリツヤのナスからは、甘い味噌の香りを纏った湯気が立ち込める。舌なめずりをしながらナスをサクリ……タマラン!! こってりとした肉味噌の味の深くに、ピリッとするスパイシィが格別。ピーマンと玉ねぎとの相性も申し分ない。これはまずい、ライスを注文したくなる。
『牡蠣酢』
これが大好物で、どこの酒場でも発見したらまず注文するのだが、ここの牡蠣酢は最高だった。小鉢いっぱいに盛られた牡蠣を箸で掬ってみるが、いったい何粒あるのかわからないほど大量。どれも良型で、酢の締まり具合も丁度いい仕上がり。これがたったの600円となれば、もう他の店の牡蠣酢を食うことが出来なくなってしまう。
あぁ、料理がウマいと酒が進む。相棒を日本酒に切り替えて愉しんでいると、隣で先輩がひとり飲っていることに気づいた。還暦くらいの先輩男性は、酒の肴にテレビの大相撲を観ているのだが、ひとつだけ気になることがあった。
はて……ウーロンハイを同時に2つ頼んでいる。なぜだろう? 先輩に軽く訊いてみたいところが、大相撲を真剣に観ているので声をかけづらい。とりあえず、私も先輩を見習ってテレビに目をやる。すると……
「舞の海より小さいんだよ」
「えっ?」
突然、先輩が話しかけてきたのだ。〝舞の海より小さい〟とは何のことかと思ったが、これから取組する力士のことを言っているようだ。改めてその力士を見てみると、確かに小さい。
「ほんとだ、小さいですね。あ、でも相手の力士はデカいっすね」
「うん。でもね、小さい方が勝つよ。みててごらん」
自信満々の表情で語る先輩。かなり体格差があるようだが……取組がはじまった。ハッケヨイ、ハッケヨイと、あっという間に小力士がその大力士を投げ倒したのだ。
「ほらね」
「わぁ! ほんとだ、スゴいですね!」
先輩は、ほくそ笑みながらウーロンハイを飲む。気分がよさそうである。そうだ、先輩のテーブルにある謎のウーロンハイ2杯の取組理由も訊いてみよう。
「ここ、ハッピーアワーがあるからね」
よく見ると〝ハッピーアワー 16時~19時〟とある。なんとチューハイ系が200円! 先輩はこのハッピーアワーの時間内にギリギリまで安く酒を確保するため、一度に2杯ずつ注文するのだという。なるほど……一度に3杯以上だと酒が薄くなるし、酒場道義的にもよろしくない。私が初めてここに来たことを言うと、この店のおすすめ料理や飲り方はもちろん、相撲のことも詳しく教えてくれた。訊けば、この店にはさらに2階と3階に座敷席あるらしい。計り知れない大箱に感心する。
「僕、こういう大箱の店が大好きなんですよね」
「そうかい。でも、ここの1階席が一番いいんだ」
「え? どうしてですか?」
何だろう、1階席には何か特別なことがあるのだろうか……? 先輩が言った。
「だって、こうして兄ちゃんと一緒に相撲観ながら飲めるじゃない」
ハッハッハと、軽く笑いながら2杯目のウーロンハイを飲み始める先輩。そうだよな……この1階席に座らなければ、この先輩と話すことはなかったんだよな。何気ない、ヨッパライ先輩の戯言なのかもしれないが、なんだか、すごく深い意味に聞こえた。
「えっ、いいの?」
「どうぞどうぞ、色々ありがとうございました!」
次の予定があり店を出なくてはならず、半分以上残っていた日本酒を先輩に差し上げた。思っていた以上に喜んでくれたようだ。
「お酒もらっちゃったよ! 女将さん、小さいグラス頂戴!」
「まぁ、よかったですね。ちょっと待ってて」
店を出る直前にもう一度先輩を見ると、大事そうに日本酒の瓶を握っていた。なんだか小さい子供みたいで、笑ってしまいそうだった。
そのうち……いや、割と近いうちに、自分もこんな先輩になるのだ、こんな先輩になりたいのだと、次の先輩を探しにこれからも酒場へ訪れるのだ──。
十字屋(じゅうじや)
住所: | 神奈川県川崎市高津区溝口2-6-13 |
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TEL: | 044-822-5586 |
営業時間: | 16:00~23:00 |
定休日: | 日曜日 |