赤坂「珉珉」その町中華、熟年夫婦の如し
「ういっす」と言って、店に中年男が店に入ってきた。男はドカリとテーブル席へ座り、おもむろに新聞を広げる。新聞に目をやったまま「中瓶とチャーハン大盛り」と言うと、厨房から出てきたマスターは「はいよ」と返事をして、冷蔵庫から中瓶とグラスを取り出した。それを男の前に置くと、厨房へ戻って中華鍋を火にかけた。男は新聞に目をやったまま、「トットットッ……」と、グラスにビールを九割注ぎ、一気に飲み干した──
とある町中華で見かけた光景ある。客が疎らな店内からは、テレビのワイドショーが流れ、時折「シャッカ、シャッカ」と中華鍋を振る音が聞こえている。
「はい、おまちどうさん」
マスターが男の前に大盛りチャーハンを置くと、厨房へ戻って行った。男は微動だにせず、新聞をキリのいいところまで読み続ける。
その間、チャーハンは黙って湯気を上げていたが、男が新聞をテーブルに置いたかと思うと、湯気ごと吸い込むように、チャーハンを掻っ込んだのだ。
ハフッ……ハフッ……グビ、グビッ──夢中でチャーハンを頬張り、合間にビールを流し込む。最後に「カンッ」とレンゲをチャーハンの器に置き、「ごっつぉさん」と金を差し出すと、マスターは「へい、まいど」と言下に答え、男は店を去って行った。
まったく素っ気ないが、一切の無駄がなく、息の合ったやり取り……まるで〝熟年夫婦〟の朝の風景である。私は完全な未婚者だが、この熟年夫婦の様に、この町中華で見かけた光景をいつか自分でもやってみたいと、日々、町中華の経験を積んでいる次第である。
先日、所用で赤坂に出向いたときの事。〝坂〟というだけあって、やたらと坂が多い街だ。何を好んでこんなところに金持ちは住みたがるのか疑問に思いつつ、慣れない大人の街を散策する。すると、ここには似つかわしくない、ずいぶん時代がかった建物を発見した。それがまさか、あの有名な赤坂の名店だとは思いもしなかった。
『珉珉』
ちょっと笑ってしまうぐらい、古くて趣のある建物だ。場所が場所なら、心霊スポットにもなれそうな迫力である。いや、いい意味で言っているのだが、これは是非ともここで飲ってみたいと、石看板をくぐった。
「いらっしゃいませー」
おおっ……
おおっ!! めちゃめちゃいいじゃないですか! 広めの厨房に長いカウンター、その上の赤いメニュー札は、油で漬けているのかというほどテッカテカだ。
奥の小上がりもL字に長く続き、テーブルは目がチカチカするほど真っ赤。「空いているところ、どこでもどうぞ」というので、この赤テーブルに酒座を決めた。ちょうど、朝の口開けと共に入ったが、あっという間に満席になった。普段行っているような町中華とは少し雰囲気が違うが、町中華であることは間違いない。そうなれば、お決まりのアレからスタートである。
『中瓶』
手酌で、グラスにビールを「トットットッ……」。ゴキュ……ゴキュ……ゴキュッ──おいちいねぇ。この席からは厨房出入り口と近く、調理中の熱気がダイレクトに直撃するため、その香気をアテにだってイケそうだ。
ウマそうな脂の香りと共に、食道をツーっとビールが流れ込むのが気持ちいい。……たまらん、料理を頼もう。
『焼餃子・水餃子』
まずは焼餃子から。パンパンに膨れ上がったその容姿から、中には大量の餡が詰まっていることを想像させてくれる。さて、つけタレを作りたいのだが……あれ、醤油がないぞ。
自分の席だけかと思ったが、他の席にも醤油は置いていいない。ははぁ……たまに見かける〝酢胡椒〟で食わせるクチか。しかし、醤油ごと置かないとは、相当な理由があるはず……よしわかった、酒場に入っては酒場に従えだ!
小皿に酢をたっぷり垂らし、そこへ親の敵のように胡椒を振りかける。そして割り箸をパチリと割り、ズッシリとその重みを箸先で感じながら、ひと口──
ブリンッ、ブリンッ──なんちゅう食い応え! 餃子というよりは、まるでステーキを食べているようだ。なるほど……上等なステーキは塩胡椒だけで食わせる、ここの酢胡椒はそれと同じような意味合いなのだろう。ニラがタップリの餡からは、肉汁が滴る、したたたる。最初は「ちょっと焦げているかな?」と思った皮も、いやいや、ご飯だって〝お焦げ〟のウマさがあるじゃないか。それと同様、絶妙な焦げの香ばしさが餡、そして酢胡椒と交じり合い、まったくもって考え抜かれた焼き加減なのだ。
つづいて水餃子。中華スープの香しい湯気を放つスープには、これまた膨よかな餃子が六つ浮かんでいる。レンゲで掬ってじゅるり──カーッ、コイツもウマい! とぅるんとした口当たりに、旨味ジャブジャブの汁が口中を汁攻めにする。アッチッチと口をつぼみながら、ゆっくりと呑み込むウマ楽しさったらない。
目の前の厨房からは「シャッカ、シャッカ」と、中華鍋を振る音が、引っ切りなしに聴こえてくる。そのリズムに否が応でも箸先がノり、中華欲は一層止まらない。
〝中華鍋の料理が食いたい!〟それも、脂タップリのをね!
『青椒肉絲』
みてみてみてみて! もうテッカテカ、大量脂よろしく、たった今、中華鍋で仕上がったホヤホヤの中華がこれだ。
ザッと箸で掬うと、細肉、ピーマン、タケノコが完璧な割合で混ざっており、それを旨脂がコーティング。堪らず喰らいつく! ハフッ……シャキッ……ハフッ──ウンめぇなぁ!! 肉もジューシーでウマいが、特筆すべきはピーマンだ。まったく青臭ささがなく、本当に食べやすい。火力か、それともこの店ならではのやり方があるのか、普通の青椒肉絲は、肉が主役になりがちだが、ここのは、完全にピーマンあっての青椒肉絲だ。ピーマンが苦手な人も、これは大丈夫どころか、ピーマンが好物になるんじゃないだろうか。
気が付くと、ビールが……ビールがすぐになくなる。本当にここは恐ろしい町中華だ、すばらしい。
「ういっす」
隣の席が空いたと思ったら、すぐに中年男が座ってきた。お運び女性も「あら、どうも」などと返事をしている。男はスマホに目をやりながら、「チャーハン。いつもの、辛いのね」とひと言。お運び女性はそれ以上なにも訊かず「はい」とだけ言って厨房に戻った。〝いつもの辛いの〟だって……? 気になってメニューを調べてみたが、それらしきものはどこにも見当たらない……あっ!!
出たっ、〝熟年夫婦〟だ!!
長年連れ添った夫婦にだけできる、〝ツーカー〟のやり取り。こんな赤坂の町中華でも、やはり熟年夫婦のやり取りは在るのだ。男はスマホをしばらく弄っていると、目の前に例の〝辛いの〟が置かれた。テーブルの赤色に負けず劣らずの、赤いチャーハンだった。男はそれをすぐ食べることもなく、チャーハンの湯気を揺らせたまま、スマホをイジっている。少し経ってスマホをテーブルに置くと、一気に〝辛いの〟を掻っ込んだ。
興味津々の私は、その様子をチラチラと伺っていたのだが、何度目かに覗いた時だった。いつの間にか男はいなくなっていたのだ。あれ?……と、首を伸ばして隣を確認してみると、そこにはきれいに平らげた八角皿だけがあった。すでに、〝ごっつぉさん〟の後だったのだ。
〝旦那さん、いってらっしゃい……〟
私は帰り際、通りがかったお運び女性を呼び止めた。そして、壁のメニューにあった『持ち帰り餃子』を頼んだ。熟年夫婦までの道のりは、まだまだ長い……今夜は家で、もう一度ここの餃子を食べながら、熟年夫婦への想いを馳せるとしよう。
「ごっつぉさ……ごちそうさまでした」
イキがってみようとしたのを止め、大人しくレジで会計をする。すると女将さんは、ビニール袋に入れた持ち帰り餃子を私に渡しながら、
「これで、お鍋にするのもいいよ」
と教えてくれた。
鍋にとは……そりゃ、ウマそうだ。
何気ないひと言だが、最後にほんのちょっとだけ、熟女夫婦を体験できたような気がした。
珉珉(みんみん)
住所: | 東京都港区赤坂8-7-4 |
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TEL: | 03-3408-4805 |
営業時間: | 11:30~14:00 17:30~22:30 |
定休日: | 日曜・祝日・8月11~17日 |