消えゆく看板の灯火……そこから始まる新たな酒場の光【超入りにくい店に入ってみた/荻窪『女ヶ澤』】
とあるニュース記事で、今年(2023年)上半期の飲食業倒産数が過去30年間で最多というのを読んだ。ラーメン屋、寿司屋、喫茶店など、それと私がもっとも愛してやまない小さな酒場は、未だコロナ禍の影響が色濃く影響しつつあるようだ。「これはなんとかしなければならない!」などと思いつつ、なるべく酒は外で飲むように心がけていても、一軒につき酎ハイ一杯400円を3杯とアテを少々。私の努力など、たかが知れている。
それでも、古き良き酒場の文化だけは途絶えないようにと、曲がりなりにもこうして酒場を紹介しつづける意味はあるのだと思う。
採算が取れずに倒産するだけが理由ではない。店主の高齢化による後継者不足、体調不良。あとは再開発での立ち退きを理由にスッパリ辞めてしまう酒場も多くある。最近だと〝酒都〟と呼ばれる京成立石は、駅前開発で多くの酒場が消え去ったし、三鷹の名店『いしはら食堂』も、年配の主人と女将が早朝から切り盛りする朝飲み酒場だったが、2022年にひっそりと閉店した。
久しぶりに行こうと思っていた高円寺の老舗町中華『味楽』は、店主の体調不良で、未だそのシャッターは開かない。
それでも、店先の〝お知らせ〟のチラシに、店のファンが応援する寄せ書きには心温まる。
なんにせよ、酒場好きとしてこのまま指をしゃぶって様子を見るだけというのは、実に口惜しい。
八月残暑の夜、私は荻窪にやってきた。というのも、大変失礼ながら〝ここ、そろそろ店じまいしてしまうんじゃないか……?〟という酒場を以前から目を付けていて、その後の様子を伺いに来たのである。
正直、その酒場の立地もあまりよろしくない。駅を出て歩くこと10分。駅前の喧騒とは真逆の閑静な住宅街にその酒場はあるのだ。
よく見てなければ見落としてしまいそうな『女ヶ澤(めがさわ)』である。店先の街頭の光で辛うじて分かる看板は、電気が点いていない。それどころか入口の赤提灯や照明も一切光を落としている。
まさか、すでに店を辞めてしまったのか……? だが、入口に近づいてみると引き戸の奥からは人の気配がする。開けて確かめてみるか……いや、この雰囲気はかなり度胸がいる。店の佇まい的にも、遠い親戚同士の集まりに、突然入っていかなければならない感じに似ている。止めておくか……いや、ここで帰ったら次に訪れることは無いかもしれな。よし……入ってみよう。
「あのう、今日って営業してますか?」
戸を引いて中へ入ると、思った通りの〝親戚の集まり感〟があった。小ぢんまりとした店内の半分は厨房、もう半分は大きなテーブルを繋いでひとつの大きなテーブルにした席が一つだけ。そこに6人ほどの紳士淑女らが、まさしく酒盛りを繰り広げていた。そんなところへ、勇気を出して声を掛けてみる。
「あれ……もしかして、貸し切りですか?」
「いえ、違うますよ。大将、お客さんだよ~!」
そう言ってひとりのお客さんが厨房の奥にいた〝大将〟に声を掛けてくれた。すると〝ねじり鉢巻き〟が印象的な大将が厨房から出てきて言った。
「いらっしゃい。ちょっとそこ片付けるから待っててね」
改めて、凄い雰囲気の店内だ。手書きイラストのメニュー、ボトルキープの棚、大量の本や書類に囲まれる中、お客さんらは当たり前のように酒を飲んでいる。片付けられた席に座ったが、果たして私はここで酒を飲めるのだろうか……
「何飲みます?」
「あの、じゃあホッピー下さい」
「ホッピー? 焼酎もいるよね?」
「あ、はい。ホッピーをセットでお願いします」
何気ない会話も、尻込みしてしまう。まるで勝手の分からない状態でホッピーを待っていると、隣の常連客であろう〝先輩〟が話しかけてきた。
「先に言っておきますが、自分たち結構うるさいですよ?」
かなり酒が入った様子だが、このひと言で少し楽になった。「全然! うるさいくらいがいいです!」と返し、何とかお仲間に入れたのだ。緊張すると喉が渇く……おっ、やっとホッピーがやってきた。
ホッピーと言えば、大抵がジョッキに入った焼酎とセットだが、ここはジョッキと別に焼酎、しかも徳利に入れてくるという珍しさ。いいですねぇ、このちょっとした驚き。手際よくそれらを混ぜ合わせて、やっとひと息。
くぅぅぅぅっ、旨ぁい! ここの焼酎は甲類ではなく乙類、しかも『いいちこ』だ。ホッピーには甲類の方が合うが、スナックなんかでは乙類で割るところも多い。これはこれで好きだから困っちゃう。さあ、こいつに合わせるアテを頼もう。
「大将、おすすめはありますか?」
「ウチのおすすめ? そんなのはないよ~」
大将におすすめを尋ねてみると、照れくさそうに手刀を振った。ならば、そのおすすめを探すのが呑兵衛としての役目だ。
壁のメニュー札でピンときた『レバたたき』からいただこう。大将は塩と醤油を一緒に持ってくると「これと、よく混ぜて食べてね」と言った。ぱっと見は、玉ねぎと青ネギ、あとは厚めにスライスされたニンニクだけの小鉢のようだ。大将の言う通りによく混ぜてみると……アラびっくり。
小鉢の下から、紅色の艶やかなレバがお目見え。そのままひと口食べると──うんまいっ! レバのトロリとした舌ざわり、ねっとりとした旨味がたまらない。後のことは気にせず、多めのニンニクと絡めて食べれば、もう病みつきである。
続いて、大好物の『麻婆豆腐』という文字を見てしまったからには頼まない手はない。ただやってきたのは見慣れた麻婆豆腐の色味とは違い、かなり淡白な色だ。果たしてどんな味なのかと、レンゲでひと口食べると……
旨いっ、そして辛いっ!! この辛さは……山椒、しかもかなり効いている。ひと口でジンジンと痺れるような山椒の辛さに舌が支配されるが、そのあとは何とも言えない爽快さが襲ってくる。これは大量にある青ネギが一役買っているのだろう。ネギの甘さが程よく調和してくれるのだ。これはなんて旨い麻婆豆腐なのだ。
「なんでまた、こんなトコに来たんですか?」
ふいに、先ほどの先輩が話しかけてきた。要するに〝なぜこんな古くてマイナーな店に、わざわざ来るのか?〟という、地元密着型の酒場へ来ると、よく聞かれる質問である。
「こういう古いお店が好きなんですよ」
「ふーん、変わってますね!」
私からしたら何ら不思議なないことではないが、地元の一般客からしたら不思議で仕方ないのだろう。これをきっかけに、先輩が色々教えてくれる。
先輩は六年間この店に通っている常連客で、最近はほぼ毎日通っているらしい。大将のこと、他の客のこと、この店のことなら何でも知っているようだ。そんな先輩が〝奢るから〟といってまで勧めてきたのが『玉子焼き』だ。
色、形、焼き具合……玉子焼きの見本ともいえる完成されたビジュアル。食べてみるとふんわり滑らかな舌触り、そしてとにかく甘い。この甘さは砂糖でも卵本来のものでもなく、玉ねぎの甘さだ。酒通好みがよろこぶ、まさに酒場仕様の玉子焼きだ。
〆に選んだのが『そうめん』だ。独身男の私が家でただ茹でるだけのそうめんとは違い、透明なガラス皿にはそうめん、プチトマトとキュウリの輪切りが清涼感を誘う。薬味を入れためんつゆに麺を浸してズルズルと啜る。喉越し最高、いやぁ、ラーメンの〆もいいが、暑い日はこっちもいい。
だいぶこの店に慣れてきたところで、最初の疑問を大将に聞いてみた。
「そう言えば大将、外の看板の電気消えてましたよ?」
「あぁ、ワザとね。ココはもう辞めちまうからさ」
啜っていたそうめんを吹き出しそうになった。詳しく聞くと、もう間もなく、この店は完全に閉めてしまうとのこと。それまでは基本的に常連さんだけを相手にするので、看板はあえて消しているというのだ。だから先輩は毎日来ていたのか。そろそろ店じまいしそうとは思っていたが、まさか本当にそうだとは……
「でもね、地元に帰って細々と店をやろうと思ってて」
「え! またお店やるんですか!?」
なんと、この店はなくなるが大将は地元の岩手に帰って、そこで新しく酒場をやるとのこと。私はそれを聞いて、初めて来た酒場なのに身内ように喜んだ。それを見た先輩は、大将に言う。
「ちょっと大将、もう辞めらんないねぇ?」
「馬鹿言え、やってあと三年だよ」
昨今、様々な理由で多くの飲食店がその灯火をけしている。けれども、その消えた灯火はまた新たな光を輝かせることも確かにあるのだ。私は大将に、きっと岩手の酒場にも行くことを伝え、店を出ることにした。
「ごちそうさまでした」
「どうも、ありがとうございました」
店を出ると同時に、大将は店先に出て来て見送ってくれた。気が付いたのだが、入る時には点いてなかった照明を、わざわざ点けてくれていたのだ。明るくなった店先には大将の笑顔が浮かび、それは次に始まる酒場の歴史を予感させるのであった。
女ヶ澤(めがさわ)
住所: | 東京都杉並区天沼2丁目3−20 |
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営業時間: | 11:00~14:00×17:30~22:30 |
定休日: | 日 |