多摩湖畔の古き良き食堂『富士屋』で出合った、素朴な料理と会話の温もり
最近、ある酒場を訪れたときのこと。そこでは“スマホ注文システム”を導入していて、私はこの日はじめて体験することになった。手元や店の壁などにメニューなし、スマホの小さい画面の小さな写真のみで料理を頼むシステム。老眼でたどたどしくも、何とか注文することができた。そのうち酒と料理が運ばれてくる。また、しばらくしてスマホから注文……これの繰り返し。
人件費削減や領収書の電子化など、合理的で多くの利点があるのは分かるが……それでも、ちょっと料金が上がっても、料理が届くのが遅くなってもいいから、もっと店の人と“会話”がしたい。特に、はじめての店の独酌は寂しい。酒場にも溶け込めず、なんだか自分がこのスマホ注文と同じく無機質な存在になった気分だ。
タッチパネル注文だって最初は違和感があったが、今ではだいぶ浸透してきたように、いずれ違和感なく利用できるのだろうけれど、今のところは「う~ん……」という感じだ。
というのも“会話の温もり”を感じる店が、まだまだ世の中には多いからだ。
ダム湖が好きで、ふと思い立って西東京・東大和市にある「多摩湖」へやってきた。ダム湖の何が良いかって、それは自然と人工の“対照美”だ。大自然を巨大なコンクリートで囲い、貯水池にする……なんて豪快な発想だ。
そこには、山々が望む美しい水面と岩の波打ち際。でも、よく見ると岩の並びはバランスよく均一で、そこに自然的要素は少ない。水面にいくつか浮かんでいる人口島も無機質で、それを取り囲む底の見えない暗い水面がなんだかゾッと感じさせるが、それがいい。
自然のようで自然ではない、人工のようで人工ではない。そんな不条理さがダム湖の魅力なのだ。
そんなダム湖の南側、多摩湖通り沿いにぽつりと古い食堂があった。
大きな三角屋根が印象的な『富士屋』である。緑と白の縞模様のテント屋根、ツバメなら何十世帯でもいけそうな大きな屋根のひさし。
2階は住まいだろうか、看板がなければ田舎の大きな家にしか見えない。近づいてガラス戸から中を覗くと電気が点いている。これは中に入らずにはいられない。
おおっ……これはいい! 中はしっかりと食堂で、色あせた壁や天井、額縁に入った写真がいくつも並び、それらを蛍光灯がチラチラと照らしている。客が帰ったばかりなのか、テーブルに食べ終えたカレーの器だけが残っている感じがマッタリとする。
ただ、店の空間はここだけではなかった。店の奥には……
「じいちゃん、ばあちゃん、遊びに来たよ!」と、思わず言いたくなる懐かしい雰囲気の大きな座敷。1、2、3……瞬時に畳の数は数えられないが、20畳はくだらない広さだ。欄間、鴨居、外からの日光は、障子を通して温もりを部屋中にもたらしている。
このまま畳に横になって昼寝でもしようかしら……というわけにはいかず、食堂へ戻ってまずは落ち着こう。
「お酒、飲んでもいいですか?」
「ええ、缶ビールでしたらございますよ」
なんとも上品な口調の女将さんが迎えてくれる。ぜひとも、缶ビールでいただきたい。こんな“家っぽい”食堂では、サーバーから注いだ生ビールより缶ビールが似合うのだ。
昼下がりの“居間”くらいのちょっと薄暗い感じに、グラスの麦汁との色合いがちょうどいい。
ダム湖歩きでほどよく疲れた身体に、ゴクゴクと冷えたビールがたまらない。今この状況を“落ち着く”と言わずして何を落ち着くというのか。
ほどなくして「おでん」がやってきた。玉子、ちくわ、こんにゃく、大根、昆布、厚揚げのおなじみメンバーが集結。
あっさりとした出汁にほどよく浸かったタネたちは、これぞ庶民的で優しい味わい。こいつをチビチビとつまんで、いつまでもビールで流し込んでいたい。
こんな食堂では「ラーメン」が外せない。運ばれてきたのを見て、思わず口がニンマリと緩む。海苔、メンマ、チャーシュー、そして真ん中にカニカマがポンと乗っている。こんなシンプルなラーメンを見たのは小学生ぶりくらいだろう。
ズルッとすすると、玉子麺の優しい味がふわり。スープも鶏ガラ出汁の中華スープで、これまたシンプルさが心地よい。お値段は550円。ラーメンが好きで普段から食べ歩いているが、今のラーメンは力が入り過ぎているのかもしれない。こういうのが力み過ぎない、本当の庶民の味なのだろう。
ガタッ、ガタガタガタ……
湖から吹く風が、店のガラス戸を小刻みに叩く。それが去ると「シーン……」とした空気に包まれる。この感じが本当にたまらない。ここから始まる映画の脚本が書けそうだ。
「缶ビール、追加していいですか?」
「お仕事は大丈夫?」
「はい、今日は休みなんで!」
「あら、いいですね」
女将さんの許しも得て、缶ビールを追加。それと店に入ってから“気になっていた”ものも一緒にお願いした。
東大和市の名産品“狭山茶”を練り込んだ「茶うどん」だ。茶そばは何度も食べたことがあるが、茶うどんなんてはじめてである。鮮やかな緑色に染まったうどんには、海苔がパラリ。ネギと柚子の薬味と、ゴボウの付け添えがうれしい。ツユにくぐらせ──ズズル、ズルッ!
旨いっ! ツルリとしたのど越しと狭山茶の香ばしさ。茶そばというのは少なからずお茶の香りとそばの香りが競合するが、うどんだとそれがない。これは本当に気に入った。お土産(みやげ)で売っているならば、間違いなく買ってしまうだろう。
「あら、もうビール飲み終わったかしら?」
夢中で茶うどんをすすっていると、女将さんがやってきて言った。そして、ビールのアテにと目の前に数枚のせんべいを置いたのだ。
「わっ、ありがとうございます!」
「この店、何度か来られましたわよね?」
「いえいえ、初めてですよ」
「あら、じゃあ似てる方だったかもね、オホホ」
オホホ、こうなると楽しい会話がはじまるのは分かっている。上品な女将さんはゆっくりと話す。
今は閑静な湖畔という雰囲気だが、昔はこの辺りもかなり活気があったそうだ。休日となれば店先には人も車も多く、店の目の前の木に車が突っ込んだこともあったと、その傷のある木まで丁寧に教えてくれた。
面白い……と言ってはいけないかもしれないが、とにかく姑さんと仲が悪かったことを切実に語るのだ。どう仲が悪かったのかは割愛するが、それでも老いた姑さんを最期まで面倒をみたというからさすがである。
姑さんが亡くなった後、時間にも余裕が出てきたのでご主人と旅行を楽しもうと思ったのも束の間。今度は、ご主人が亡くなってしまったのだ。
「だから、思ったら即行動することよ!」
そう力強く語る女将さんからは、計り知れない説得力にあふれていた。
さらに「今まで頑張ってきたから、残りの人生は“ご褒美”なの」と言う女将さん。果たして、私も将来はこんな風に思えるのだろうか……いや、そう思うために今を頑張って生きろということだ。
ただ食堂に来て、昼飲みをして、ラーメンを食べるだけじゃない。思わぬ発見や勉強ができるのが、店の人と会話する魅力だと改めて実感するのだ。
スマホ注文システムも、そのうちにタッチパネル並みに普及するのかもしれない。それでも、こんな会話ができる食堂は、きっと残り続けるのだと信じて、今は残りの茶うどんをすするのだった。
富士屋(ふじや)
住所: | 東京都東大和市狭山1-844 |
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TEL: | 042-561-3329 |
営業時間: | 11:00 - 15:00 |
定休日: | 月・金 |