神田「浜貞」酒場警察24時《ツマミ泥棒》犯行の瞬間
神田は電車の乗換えでよく使うが、ほとんど降りたことがない……というか、降りる必要がない。普通のサラリーマン家業ではない私にとって、神田や新橋のような日本を支える企業戦士たちの領域に立ち入る理由があるとすれば、『酒場』の二文字だけである。
もちろん、名酒場が多く存在することは知っていたが、まともに訪れたのは今夜が初めてかもしれない。スーツ姿の紳士たちで賑う駅構内をパーカー姿で抜け出た私は、しばらく神田の街を漫ろ歩きすると、ある場所で足を止めた。
なんだ、これは……?
駅近くの雑居ビルの一角に、道路へはみ出すほどの発泡スチロールが大量に積まれていたのだ。その中の一部には水槽用のエアーポンプの管が伸びており、どうやら中に魚か何かがいる様子。
一体ここは──
『浜貞』
〝大衆割烹〟と書かれた看板に、色あせた群青色の暖簾……熱帯魚屋でも発泡スチロール屋でもなく、ここは歴とした酒場であった。しかしこの豪快さにこの構え、只者……いや、只店ではない。なんだか〝呼ばれている〟気がして、暖簾を押した。
すごい、熱気……!! 右曲がりに伸びた店内は、左側にテーブル席、右側にカウンターが斜めに延び、壁も天井もずいぶん年季が入っている。どの席も客で溢れ、満席のようだが……
「イラシャマセー、ココドゾー」
おぉ? 渋めの店にしては珍しく外人さんのお運び女性か……というか、板場のマスター以外全員アジア系の外人さんだ。この人員は、以前訪れた練馬の『金ちゃん』と同じく、急に日本の大衆酒場からアジアのエスニックな雰囲気に様変わる。お運び外人女性に通され、カウンターにひしめく客と客の隙間にズッポリとはまった。
目の前には大きな俎板、そこへ次から次へと入る注文をバッサバッサと『新倉イワオ』似のマスターが、迫力の包丁を振る。これはいい〝砂かぶり席〟だ。
「ナニ、ノミマスカー?」
「じゃあ……瓶ビールくだチャイ」
混んでいる割にすぐビールは届いたが、いやはやすごい人気店だ。あまりの忙しさなのだろう、帰った客の食器を片付けるのが追いついてなく、カウンターの上には大量の食器が並んでいる。
その中でも多く目についたのが、大きな〝ドンブリ〟だった。
なんだこりゃ……ラーメン? いや、うどんでも食べたのか?
飲み屋でも、稀にラーメンや飯物が名物という店がある。もしかしてここもその類なのかと、そのドンブリを眺めてまずはビールをキュッと飲る。そして、料理は何にしようか思案していると、
「コノワタ下さーい」
テーブル席で飲っていたサラリーマングループの一人が注文の声を上げた。コノワタ……って、どんなだったっけ? うーん、ちょっと思い出せない。魚だったか、珍味だったか……分からなければ分からないほど気になってしょうがない。
そうなると、こうするしかない。
「すみません、こっちにもコノワタください」
《ツマミ泥棒》である。
ツマミ泥棒とは、他の客が注文した酒や料理を真似て同じものを注文するという酒場法に基づく『窃盗罪』のこと。私は普段、人が食べている物を真似したりはしないが、今回はどうしても気になってしまった。そして思わず罪を犯してしまったのだが、初犯ということもあり執行酒予10分でコノワタが届いた。
『コノワタ』
〝あ、食べたことない〟と見て気づいた。……しかし、これは何なんだ? 小皿の底に茶色い液体が溜まっているだけで、どうみても塩辛の残りにしか見えない。ともかく一箸入れてみた。
ニュー……
箸先に感じるナニかを持ち上げると、やたらと細長い。うーむ、やはり分からない……これはマスターに訊いてみるか。
「コレって……なんですか?」
自分で注文しておいて〝なんですか?〟はおかしな話だが、マスターは包丁を振りながら答えてくれた。
「ナマコの内臓の塩辛だよ」
ナマコの内臓……そういえばそんな塩辛があったかもしれない。ズズッをその内臓をすすってみると、これがまた強烈な味。一瞬にして口の中が〝海〟になるのだ。しかもただの海ではなく〝漁港〟だ。いやはや、色々な酒肴を食べてきたと思ってきたが、まだまだ修行が足りないようだ。
「アカガイ、オマタセシマチター」
コノワタをすすっていると、お運び外人女性が別の男女客へ赤貝の刺身を渡していたのだが、ここでやっとドンブリの謎が解けた。あの大きなドンブリは刺身用の器だったのだ。なぜ、刺身の器にドンブリを使うのかは、この後の私の〝再犯〟をもって知ることとなる。
「すみません、こっちにも赤貝ください」
『赤貝』
遂に、例のドンブリの登場だが……なんとういう豪快な盛り付け! なるほど、大きなドンブリにする理由は、この豪快な盛り付けのためだったのか。まずドンブリにクラッシュアイス、そこからオゴノリ、ダイコン、生海苔が山のように積まれ、それが刺身の土台となるのだ。これはもはやサラダ一品分の量である。普通の平らな刺身皿では、到底受け止めることはできないだろう。
そしてその山の頂上に鎮座する主役、新鮮で真っ赤に染まった超肉厚な赤貝だ。赤貝は新鮮なほど〝スイカ〟のような瑞々しく甘い風味があるのだが、これは箸で持ち上げただけでも〝甘い〟と分かるほど。
『志村けん』の〝スイカの早食い〟が如く、むしゃぶり食らう……ンまいッ!! 滴るような鮮度、溢れる甘味──東京の都心で、こんなにおいしい刺身を食べたのは初めてかもしれない。
その後も、隣の客が『甘エビの刺身』を食べているのを見て、あまりの鮮やかな紅色にやられて重犯、さらにトイレへ立つ際に見かけた『塩辛』がどうしても気になり、これもまた重犯……もはや、ベジータが呆れるくらい《ツマミ泥棒》のバーゲンセールである。
客の料理を真似ばかりしてみたが、これがそう悪くない。〝隣の芝生は青く見える〟みたいなもので、はじめての店でなんとなく選んで食べた料理より、まわりの客と同じものを食べる方がおいしく感じる気がする。つまるところ、《ツマミ泥棒》をするということは、その酒場の料理に『魅力』があるということなのだ。
また、2つ隣のOLに注文が届いた。
「ハイ、エビフライデスー」
「わぁ、おいしそ♪」
……もうひと仕事、ヤるか。
あー、腹が泥棒で一杯だ、さすにもう入らない。会計をするために店員さんを呼ぼうとすると……
休憩中なのか、ハーゲンダッツのアイスを食べていた。
それを見ていると、
ニッコリ。
……可愛い、そしてウマそうに食べるなぁ。
「アリガトゴザマシター」
私は店を出るとコンビニに寄り、最後にもうひと泥棒した。
「……まるで《ツマミ泥棒》のバーゲンセール……いや、ハーゲンダッツだな……」
浜貞(はまさだ)
住所: | 東京都千代田区内神田3-21-8 神田駅北口合同ビル |
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TEL: | 03-3254-3396 |
営業時間: | 15:30~23:00 |
定休日: | 第2土曜日 日曜日 祝日 |