森下「はやふね食堂」理想的なモーニングルーティン
最近はアーティスト、スポーツ選手、アイドル、ユーチューバーなどの著名人が『モーニングルーティン』などという、プライベートな朝の習慣をメディア配信しているみたいだ。朝に目が覚めるところから始まり、身支度してから家族と朝食をとり、そこから仕事や学校へ行くというのが一般的だが、特殊な職業の人々はそれこそ起床直後から千差万別だと思うし、それを覗いてみるというのは確かに面白い。
特殊人間集団『酒場ナビ』に勤める私のモーニングルーティンはというと、朝から酒場に行く日は〝朝に目が覚める〟というところまでは同じだが、起きた直後に台所からタンプラーを持ってきて、それに焼酎とソーダストリームで作ったタンサンを注いで飲むことから始まる。もうかれこれ5年はその調子だが、アルコール中毒だとは思っていない。それを最低2杯は飲ると、時刻は大体いつも9時くらいだろう。そこでようやく身支度をはじめて、いよいよ酒場探しへと向かうのだ。
夏の終わりに、私は都営新宿線の森下までやってきた。さすがのアルコール中毒の私でも、午前中、しかも既に気温が30度近くあるのに、どぎつい激渋酒場でシメサバをアテに日本酒でツイー……という気分にはならないので、大衆食堂で〝朝食セット〟といきたいのだ。この森下でその朝食セットをいただける食堂といったらここしかない。
『はやふね食堂』
オレンジとクリームの縦縞テント、藍色暖簾の短い裾は褪せに褪せ、引き戸のすりガラスの奥からは、既にざわざわと〝物語〟を予感させる気配がうかがえる。さっそく、その物語の扉を引いてみる。
ガラガラガラ……
「おはよー」
……とは言っていないが、感覚的には〝自分の部屋(自宅)から居間へ降りてきた〟気分で中に入った。
中にはテーブルが数卓あり、飾り気のない〝家感〟満載のシンプルな居間だ。空いている席へ座ると、そこへ女将さんがやってきた。
「何時まで寝てるんだい! 遅刻するよ!」
……とは言われていないが、感覚的には女将さんではなく『母ちゃん』だ。隣を見ると、高校生くらいの女の子とその父親が仲良く定食を食べていた。こちらは、『妹』と『父ちゃん』という設定にしておこう。
「母ちゃん、オレンジジュースくれ」
……とは言っていないが、丁寧に瓶ビールをお願いした。母ちゃんは冷蔵庫から瓶ビールを取り出すと「しゅぽん」と栓を抜いて持ってきてくれた。
瓶ビールの瓶が一番きれいに映えるのは、午前中の太陽光の下であることは周知のとおり。添えられた野菜漬けがうれしい。トクトクトク……コップに満たされていく黄金色は、やはり一番美しい。
ごきゅん……ごきゅん……プハァァァァッ、おはようさん! 冷えたタンサンののどごしがたまらない。一気に眠気眼が覚めた。
「早く朝ごはん食べちゃいな!」
……とは言われていないが、隣の妹と父ちゃんはすでに朝食を食べているので、自分もさっさと食べ始めないといけない雰囲気だ。わかったわかった、母ちゃん、朝メシにしてくれ。
『アジの干物』
朝食の定番といったらこれだろう。皿からは微かに「シュゥゥ……」という焼き上がりの音が鳴り、同時に干物の得も言われぬ香ばしい香りが漂う。箸を挿れると「パリッ」という音と湯気がふわりと立ち上がる。そのまま口に入れると──ンまい! 丁度いい塩加減、皮の香ばしさが堪らない。ライスと味噌汁と味付け海苔と生卵も欲しいところだが、今朝は控えておこう。代わりに軽く一品くらい……おや?
タラ子、焼生……? 『タラ子焼生』という、ちょっと変わったメニューが壁にあった。〝生のようで焼いてある、焼いてあるがやはり生〟──なんだか気になるな。よし、『タラ子焼生』にしてみよう。
「タラ子焼生ください」
「焼生? そんなのないよ!」
「えっ、あそこに書いてますよ?」
「タラ子の〝焼き〟か〝生〟のどっちかってこと! あはは、なーに言ってんの!」
うわっ! めちゃめちゃド天然な間違いをしてしまった……! これは恥ずかしい……隣で妹がくすくすと笑っている。顔を真っ赤にしながら「うるせーな!」と言いそうになったが、大人な兄としてグッと我慢。「じゃあ、焼きで!」と、照れ隠しに大き目の声で母ちゃんに頼んだ。
『タラ子焼』
あららら、いい色してるねぇ。朝食にこいつがあるだけ、いい日になれそうな気がする。ムッチリとした所をムンズッと箸でつまみ舌に乗せる。
プリプチプリプチ……噛む度に心地よい卵の舌ざわりに、かるく表面炙られた薄皮の風味も相まって最高だ。炙るというちょっとした手間が、生のタラ子の旨味を最大限に発揮させてくれる。やはりこれは、『タラ子焼生』といってもいいんじゃないかしら……?
「残りのキュウリ、漬物にしちゃうよー」
♪ふんふんふんふん……
台所では母ちゃんの声に、時折鼻歌が入り混じる。これから始まる一日に向け、段々と忙しさに沸いてきている。朝食も済んだし、どれ、そろそろ私も動き出すかな。
「ごちそうさん。仕事行ってくるわー」
……とは言っていないが、会計をして店を出ようとすると、母ちゃんは玄関まで見送りに来てくれた。
「こんな暑いのに、どこ行くの?」
「また飲みに行くだって? まーったく、もう!」
……これは間違いなく言って、私の腕を軽くペチンと叩いた女将さん。この時ばかりは、本当に自分の母親のように思え、まさに実家の家族と過ごす懐かしきモーニングルーティンを述懐させるのだ。そんな事も含めたすばらしき朝食セットを、どうもありがとうございました。
「ほどほどにね!」
「はーい!」
居間を出ると、強烈な残暑の日差し。
さて、今日も酒場探しを始めるとするか。
はやふね食堂(はやふねしょくどう)
住所: | 東京都江東区森下3-3-3 |
---|---|
TEL: | 03-3633-3230 |
営業時間: | 11:00~14:00 17:00~21:00 |
定休日: | 日曜・祝日 |