大森「とん兵衛」その酒場、茶色につき
「酒場とは、1%の茶色と99%の茶色である」
トーマス・エジソン(1847 – 1931)
──と、かの偉人は言ってなかったが、私が後世に残す言葉はこれしかないと思っている。
呑兵衛の諸氏よ、酔っぱらった頭でよく思い出してごらんなさい。お気に入りの酒場に出向いて、まずその外観を見る。「やっぱりいいなぁ」なんて言いながら古暖簾を引くと、煤けたいつもの光景だ。イスを引き、酒座に着いてテーブルの肌触りも問題なし。瓶ビールを飲んで、煮込みとやきとんを注文、もちろんタレで。それで何本か飲って、いい気分になったらお会計。レジ前で、ふと見上げた茶色の天井から垂れる灯りが心安らぐ──
と、もうお分かりのように、良い酒場で目に入ってくるものは〝茶色〟ばかりなのだ。
「そこまでじゃないだろう」というかもしれないが、外観や店内、酒に料理と、そしてそこに漂う空気の色までもが……うん、やはり〝茶色〟ばかりだ。〝セピア色〟といってもいいだろう。
少し前に、大井町と大森ではしご酒をしていたのだが、けっこう酔っぱらった状態でとある酒場の前にたどり着いた時のこと。
「おぉ、茶色ぇなぁ……」
思わず呟いたのは、大森にある『とん兵衛』の前だった。元の色なのかどうなのか、店の外壁、〝花春〟と大書された扁額、赤ちょうちんと藍暖簾もなんだか茶色っぽく見える。
だいぶ、酔っているのか……と目を擦りつつ、不思議な茶色の空間に誘われるまま暖簾を割った。
「いらっしゃいませ!」
「……!?」
茶色ぇなぁ!
店内はもっと茶色かったのだ。壁に天井、つり下がった照明にやきとんの木札。柱時計も、いい茶色だ。
白い皿やホワイトボードが、異常に目立つ。グーグルで〝茶色〟を画像検索したら、間違いなく上位の結果で出てくるだろう。とりあえず、一旦落ち着いて案内されたカウンターの酒座に座ろうか。
茶色ぇなぁ!
スベスベ肌のテーブルは、やはり茶色い。醤油やソースがこぼれていたとしても、うかつに肘を置いてしまうレベルだ。
たまたま履いていた、私のズボンも茶色だ。店に入ってから、次から次へと茶色ばかりで、なんだかのどが渇いてきた。酒を飲もう。
茶色ぇなぁ!
大ジョッキに並々注がれた茶色のホッピー。ビールと違って、泡がない分茶色の割合が強めだ。
チャクン……チャクン……チャクン──、ウマ茶色いっ! ここのは白のホッピーだが、黒だったらもっと茶色かっただろうな。よし、お料理をいただきますか。
茶色ぇなぁ!
『煮込み』はモツ肉とゴボウの茶色コンビ。コリシコのモツ肉は、シンプルそのものでいい。旨味が溶け込んだ茶色スープは、ちょい辛口でまったく飽きない。これ、器が白じゃなかったら、テーブルと同化してどこに煮込みがあるか分からないだろうな。
茶色ぇなぁ!
見上げると、壁には茶色の小判コレクションが並んでいる。本物だろうか、いやまさか。
茶色ぇなぁぁぁぁ!
もう〝レバ〟とか〝カシラ〟とかじゃなく、〝チャイロ〟でいいんじゃないだろうか。ムッチムチの茶塊には、デラリと茶色のタレが覆われ、まるで琥珀の宝石のように輝いている。
おっと、七味唐辛子のお化粧を忘れるところだった。タル型七味入れのキャップを外してと……おや?
お前さんも、茶色ぇなぁ!
七味ってこんな茶色かったか……? まぁいい、追い茶色だ。咥えて串から引き抜きモグモグ、うめぇ……いや、タレが本当にうめぇ。
コーッテリのうま味が強め。レバはジュワコク、カシラは溶けるように柔らかい。口の中が、ウマい茶色でいっぱいだ。
「はい、塩昆布キャベツでーす」
うわっ、眩しい!!
ずっと茶色だったので、鮮烈な『塩昆布キャベツ』の白に目がヤられた。塩昆布の黒フィルターがなかったらヤバかった……もう体中が茶色くなっている気分に、キャベツのシャキリ具合が丁度いい。なんだかんだで、上手くできているもんだ。
「ここ、雰囲気いいでしょう?」
「……うん」
近くには、三十代くらいの男女カップルが座っていた。派手目な格好の彼女は、大衆酒場慣れしていないせいか、少々ご機嫌ななめのようだ。その二人の会話を、聞くともなく聞いていたのだが……
「やっと、コロナが落ち着いてきたわね」
「えっ、コオロギが何だって?」
「……ハァ?」
彼氏が天然なのか何なのか、こんな調子で、まったく話がかみ合っていない。「コ・ロ・ナ!」と、彼女の方はさらに機嫌が悪くなった。私は、笑いを堪えた顔をマスクで隠し、会計を頼んだ。
テーブルの色、ホッピーの色、やきとんの色、帰り際に見えた天井の色……たくさんの茶色、ごちそうさまでした。やはり、酒場の魅力に〝茶色〟を欠かすことはできない。そして、その茶色が濃ければ濃いほどに、名酒場となっていくのではないだろうか。
あっ、
どうでもいいが、コオロギもまぁまぁ茶色ぇよなぁ……
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とん兵衛(とんぺい)
住所: | 東京都大田区大森北1-9-4 |
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TEL: | 03-3761-2478 |
営業時間: | 17:00~21:30 |
定休日: | 日曜日 |