王子「山田屋」浮気酒場は秘密裏に、はじまる
はじめて東京・鶯谷駅にある『信濃路』へ訪れた時は、そのメニューの豊富さや店の造り、安価でウマい料理が24時間いつでも堪能できるということで、それは大いに気に入り、その後も一番オススメな酒場、言わば〝本妻〟として『信濃路』を公言しているのだが、昨年の2017年にとある酒場と出会ってからその気持ちに〝揺らぎ〟が起こっていた。
〝もう一度行ってしまったら、どうなるかわからない……〟
それは、
触れてしまえば今までの信濃路への一途な想いが脆く、崩れてしまいそうな程だった。
〝酒場も恋愛も一緒である〟
と、どこかの酔っ払い共が言っていたように、出会いがあれば別れもある。
浮気だって、あるかもしれない……。
〝俺の気に入った酒場を、他のヤツにちょっかい出されたくない〟
そんな複雑な感情を抱きながらも、ついに私は何者かに背中を押されたのだ。
『王子駅』
──8月末。
はじめての『山田屋』から、約一年ぶりの町並み。
ここまで来てしまっては帰るわけにもいかない……。本妻『信濃路』への背徳感を感じつつも、私の脚は〝不貞酒場〟へと向けて歩き出す。
『山田屋』
出た……。
会いたかったような、会いたくなかったような……
そんな、機微な感情を知って知らずか、「あら、お久しぶり」とビラビラと収まりのいい薄墨色の暖簾が私を〝のぞき魔〟として迎え入れる。
ゴクリ……
緊張の面持ちで、私は引き戸をやさしく引き、中へと入った。
──ガラガラ
ッ……!!
これだ……
これだよ……
これなんだァ────ッ!!
一瞬にして、はじめて『山田屋』と出会った時と同じ感情が蘇った。
大衆酒場……いや、大衆食堂でもあるような……そんな唯一無二の景色がそこに広がる。大好きな信濃路さえ凌駕するその独特な店内の造りと雰囲気こそが、私が魅了してやまない最たる理由なのだ。
スラリと伸びた、
角丸長テーブルの美しい木目、
尻で磨かれた可愛い丸イスに、
コンクリート剥き出しの洒脱な床、
そして、店のすべてを温かく見守る熟時計……
久しぶりに『山田屋』のパーフェクトな体を見て、思わず私の敏感な部分が屹立する。
もう、ただただここにいるだけでも心が安らぐ最高の空間なのだ。
「12時には店を閉めちゃいますが、いいですか?」
酒場リビドーに浸る私に、マダム店員がそう話かけてきた。
すでに、時刻は午前11時30分を廻っていた。
この山田屋は、いわゆる〝中休憩〟があり、普段は13時くらいに一度店を閉めると聞いていたが、今日は客が少ないのもあってか、だいぶ早くからの店仕舞いのようだ。
まあ、制限のあるプレイも悪くない。
「わかりました!!」と私は言い、目指すは冷蔵庫へと走った。
マダム店員らに言って酒を注文することはもちろん出来るのだが、トイレ脇にある冷蔵庫から自分で瓶ビールやタンサンなどを出して飲んでも問題ない。
〝ガシャポンッ、カランカラン〟
と冷蔵庫の横にある、これまた年季の入った穴……いや、栓抜きにズボリと差し込み、ヌイて……いや、栓を抜けば、その栓の落ちる音さえこの店の《酒場BGM》となるのだ。
ただ、瓶ビールとグラスを置いただけで〝画〟になる妙。
チュ──と唇にグラスを傾けた後、四方八方の壁に貼られた大量のメニュー札を左右上下、舐めるように熟視する。
ここで書道教室をやっているというだけあって、かなり達筆なメニュー札。とにかく料理のメ ニューが豊富で、初見なら何を注文していいか戸惑うほど。さらに〝安い〟とくるから敵わない。
ならばと、『山田屋』といったら外せない名物料理を注文した。
《ハムカツ》
お行儀よく並べられた半身が4枚。スソ──と、いつもどおりソースを《高血圧がけ》した後、ガブリと口からカツへお迎えにいく。
肉薄衣厚、これぞハムカツの醍醐味だと言わんばかりの貫禄。たっぷり目のソースが厚めの衣に丁度よく滲みり、添えられたキャベツをライス代わりに箸で包んで口に放り込めば、庶民的なウマさに麦酒が進む。
《半熟玉子》
季節によってか気分によってかは知らないが、付け合せに色々な麺が添えられる。本日の麺は《ひやむぎ》であり、ひんやりとした麺の喉ごしが、今は晩夏であることを思い出させ、夏好きの私は少しセンチな気分になる。
酒場ナビの大好物である玉子の〝黄身イジリ〟をすると、わずかに黄身の〝芯〟が残り、それを大蛇の如くパックリゴックンと喉を滑らせていただく。出汁の甘味がガッチリと玉子と渾然するやさしき滋味である。
〝やはり、いい……いいよぉ、山田ぁ……〟
その後も暫くは、その景色、その料理と共に陶然とする時間を愉しむばかりだった。
「ゴーン、ゴーン……」
柱に掲げられた熟時計が12時を告げる。要するに、私の不貞酒場はシンデレラのように別れの時がやってきたということだ。
〝しかたがない、去るか……〟
信濃路への罪悪感が、「席を立たて」とそうさせる。
……そう、私はまた信濃路という本妻へ戻らなければならないのだ。
「ごちそうさまでした。いくらですか?」
「920円です」
安い……
こりゃまた、来週も逢いに来よう……いや、ダメだダメだっ。
私には信濃路という愛してやまない本妻が、いるのだ。
これ以上、逢瀬を重ねる訳には……
「あの、お客さん」
「……はい?」
金を払い、店の戸に手をかけた瞬間、マダム店員が声をかけてきた。
「今日は早仕舞いでごめんね」
「えっ!? あ、あ……」
「また、ゆっくり来てね」
──ガラガラ
店を出て、私は決めた。
妻と別れることを──
プロフィールの【オススメの酒場】変更済み
山田屋(やまだや)
住所: | 東京都北区王子1-19-6 |
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TEL: | 03-3911-2652 |
営業時間: | AM08:00~PM13:00(土曜は多少早めに閉まります)PM16:00~PM21:00 |
定休日: | 日曜・祝日 |