大船「観音食堂」男39歳独身、ただいま酒呑み修行中!
ここにひとつの方程式がある。
〝酒場力 S = 酒場訪問数 v × 泥酔度 d の2乗〟
彼の《アルチューノ・アイン酒タイン》が提唱した〝相対性酒論〟の論理式である。
一般的にこの方程式を頼りに己の〝酒場力〟を勘定しつつ酒を呑みに行っている酒徒も少なくないのだが、必ずしもこの数値が高いからと言って〝立派な酒場人〟であるとは言えない。
かく言う私は、同年代で妻子持ちの立派な大人達と比べて、普段平日から桁違いに《酒呑み修行》に出歩いているにも関わらず、
未だに、
「……えっ」
となる酒場出来事に、度々出くわすのだ。
****
9月初旬の秋雨前線を前には、然しもの超晴れ男である私も惨敗し、土砂降りの雨の中『大船観音寺』に来ていた。
山の中から頭がヌッと出現している、
〝あの巨大観音様像を近くでみてみたい〟
読者の中にも、鎌倉や湘南へ遊びに時に電車や車から見かけたことがあると思う、突然現れるあの巨大な観音様像が前から気になっていたのだ。
ちょうど近くまで来たついでに、私は参拝へと向かった。
「デ、デカい……!! けど……」
実際に近くで目にするとその巨大さに圧倒するが……これも訪れた方は思ったはずだ、
〝上半身だけだったのかい〟
外からは胸より下は森に隠れていて分からなかった。
とは言え、そのありがたいご尊体へ拝礼した後、これもはじめてである『大船』の酒場散策をしてみたのだ。
「なぬ!? 観音だって!?」
駅から出てすぐ、ひときわ人通りの多い商店街の一角に、突如〝観音〟と大きく書かれた看板が現れたのだ。
観音の看板……
先ほどその〝観音〟を拝んできたばかりに、このダジャレの様な偶然は一体……
《観音食堂》
「これは大船観音様の思し召しだ……!!」
私の好きな〝食堂〟までくっつけられてしまって素通り出来るわけがない。そんなことをしたら観音様のバチが当たってしまう。
サカバー冥利に尽きる出会いに、私は《酒場の観音様》に感謝する。酒場の観音様、ありがとうございます。
早速、〝かんのん〟とかかれた凄艶な紫暖簾を恭しく《暖簾引き》をして中へと入る。
──いい、ですねぇ……
テーブル席では大勢の先輩諸氏がすでに酒盛りの真っ最中。小上がり……いや、大上がりは奥行きがあり相当数の酒徒を収容することが出来そうだ。雰囲気は、食堂というよりは『割烹』の様でもある。
「テーブルにしますか? 座敷にしますか?」
と、お運び女性が聞くので、私は迷わず大上がりにと答えた。
カウンター席が見当たらないと思ったら、この座敷の一辺を椅子代わりにして座らせるという、少し変わったタイプの座卓席があった。
おもしろいなぁと、その座卓席も一望できるテーブルに酒座を決めて、まずは酒を所望する。
《レモンサワー》
雨の陰気を払しょくするのに一番早いのは、やはりレモンサワーに限る。心の中で観音様と《酒ゴング》をして、ゴキュゴキュと喉を鳴らし飲み、さわやかになったところで、いざ肴。
《ハムカツ》
あれ? ソースが見当たらない……まぁ醤油でいいか。
カツ系には醤油派という方もいるであろう、私も母親が何にでも醤油をかける人間だったのでまったく抵抗はない。むしろ、この薄いラクダ色の上品な衣には醤油の旨味がよく合った。
《とちお・しらすチーズ焼き》
栃尾揚げにチーズを載せてこんがりと焼いた、まるでピザのようなその容姿。カリリとした歯触りに続けて、チーズの芳醇と共に栃尾揚げのどっしりとした食べ応えが妙味。
これも醤油にちょんとつけて食べると、醤油味がパラリと乗ったアサツキ、チーズ、しらす、栃尾揚げが渾然として、その味は軽快かつグルーヴィー。
《生シラウオ》
こっち方面に来たら必ず食べる絶対好物。釜茹でも悪くないが、生には及ばない。特にこの辺のシラウオは色白かつ、〝ほろ苦さ〟がグッと際立って最高だ。
こいつを少しの生姜と箸で包んで、醤油皿の醤油に落とさないようにサッとくぐらせて食べると……飲み込むのが惜しいほど口福に包まれる。
いやぁ、ウマいシラウオだ……ん?
なにか、
なにか別に、このシラウオのウマさを引き上げている気がする……
あっ!!
これだ!
《醤油》
ハムカツに始まり、チーズ焼き、生シラウオ……これらすべて、無意識にこの醤油を使っていたではないか……!!
ペロリと醤油を舐めてみる……ンまいッ!! ……気がする!!
角がなく、丸みがあるのに新鮮かつキレのある味。例えるなら〝醤油ジュース〟のようで、これは確かに様々な料理と合うはず。醤油では出身地の我が秋田県を代表する《味どうらくの里》の右に出る醤油はないと思っていたが、これは勝るとも劣らない旨さだ。
一説では〝大きな船が出入りした土地〟から『大船』という地名になったと言われ、東海道は戸塚と藤沢、さらには鎌倉幕府と隣接する土地柄、それはさぞかし目新しく、傑出した品々が集まっていたに違いない。
そんな中で、もしかすると〝大船醤油〟なんてものが存在するのかもしれない……。とにかく酒場の観音様、こんな醤油と出会わせていただき、ありがとうございます。
よし、この醤油が店頭販売しているなら、是非とも買って帰ろう。
私は会計をする間際、近くにいたお運び女性に訊ねた。
「ごちそうさまでした。料理もおいしかったですけど、ここの醤油もすごくおいしいですね!」
「そうでしたか、ありがとうございます」
お運び女性は莞爾として笑った。
「なにか、特別な醤油を使ってるんですか?」
「……ちょっと、お待ちください」
お運び女性そう言って、サーっと奥にいた女将さんらしき女性の元へと走っていった。なにやら女将さんの耳元で今の会話を説明しているようだったが……
えっ!?
なんか、大事にでもなるのか!?
というか……
やっぱりここの醤油って、凄い醤油なんだ……!!
思わず財布を出したまま固まる私の向こうでは、まだお運び女性が女将さんに説明している。
たまらず、私はそこへ向かった。
「あ……このお客さんがウチの醤油について聞きたいらしいです」
お運び女性がそう言うと、女将さんは〝ああ、この人が〟という表情で軽く会釈をしてくれた。
フフフ……他の先輩客すら見抜けなかったこの醤油の旨さに、〝観音素人〟の私は気づいてしまったようだ──
サカバーとして、
酒場ナビの一員として、
私は満を持して、女将さんへ畳み掛けた。
「こちらで使ってる醤油って、完全に特殊なものですよね!? どの料理にもすごく合うし……」
「あ、あの……」
「ここで店頭販売とかしてませんか? それか売ってる場所とか教えてもらっ……」
「どこにでも売ってるお醤油……ですけど」
「……えっ」
観音食堂(かんのんしょくどう)
住所: | 神奈川県鎌倉市大船1-9-8 |
---|---|
TEL: | 0467-45-1848 |
営業時間: | [平日] 11:30~20:30 [土日祝] 11:30~20:00 |
定休日: | 水曜(月一度連休あり) |