練馬「千曲食堂」酒場珍耳袋 第一話「え? 今、なんて言った……?」
ひとり酒場で飲っていると、聴くともなく聴こえてくるマスターや女将さん、そして先輩らの会話。
これがまたいい酒の肴になるもので、くだらないダジャレや猥雑な下ネタだけかと思いきや、逆にホロリとする人情ばなしなんかもある。若い男女が好きだの嫌いだの話が聴こえるもんなら、時間稼ぎに酒を追加して、ニヤニヤと聞き耳をたてるのもいい。
酒場珍耳袋 第一話
〝え? 今、なんて言った……?〟
その中で〝今の話、どういうこと……?〟と、思わず耳を疑う会話に遭遇したことはないだろうか。酒を飲んでいるので、大抵はそのまま忘れてしまうことが多いのだが、稀に店を出て家に帰るまでの間も、ずっとその意味が気になってしまうことがある。
****
──とある日の午前中。
昼飲みがしたいと思い、そういえば練馬で行きたかった大衆食堂を思い出した。池袋から西武池袋線に乗り、練馬駅を降りてすぐのところにその食堂はある。
『千曲食堂』
おぉ……いい店構えですねぇ。錆トタンの外壁に色褪せたテント屋根。今にも朽ち果てそうな入り口の扉、間口には藍色に〝大衆食堂〟と白字で書かれた渋暖簾が健気に掛かる。こういう酒場を前にしていつも思う。
〝これは、営業ってるのか……?〟
ペラペラのベニヤ板を、数枚張り合わせたような軽い扉を押してみた。建付けが悪いが……おぉ、開いた。いや、たとえ鍵がかかっていても、これなら開いたかもしれない。
細長い店内には7、8人座れるかどうかのカウンターのみ。客は誰もおらず、カウンターの中には……やはり誰もいない。
「すいませーん」
……返事がない。
「あの、すいませーん!」
「……いらっしゃい」
少しすると、奥から白髪の女将さんが現れた。こういう食堂で、たまに何度呼んでも誰も出てこず、そのまま諦めて帰ることがあるが、よかった、とりあえず座ろう。
「瓶ビールください」
「……はい」
女将さんは無表情のまま、奥の厨房にある冷蔵庫へ向かった。瓶ビールを持って私の席に来ると、栓を開けてグラスをコンと置き、そのまま去って行った。
うーむ……さては女将さん、結構難しいタイプなのかもしれないぞ。キュッとグラスを空にして、目の前にあった《OHS》に目をやる。
ふむふむ、煮付けとニラ玉か……いや待てよ、こっちの方がいいな。
「あの、肉天ぷらの単品ください」
「……単品で、いいのね」
「あっ、はい!」
うむ、やはり手ごわいぞ。しかし、必ずどこかで打ち解ける瞬間があるはずだ。謎の使命感を心に秘め、料理を待った。
『肉天ぷら』
うおっ、こりゃずいぶんボリューミィだ。平中皿にゴッソリと積まれた肉天ぷらに塩をかけ、箸で持ち上げるとズシリと重い。そのまま口の傍へ持っていくと、揚げたての香りと温もりがふわり。
それをカリリとカジると、痛快な歯ざわりと共に中の豚肉からはジュワリと肉汁が溢れ至福となった。ビールに合うこいつは最高である。
カウンターの女将さんを見ると、何かの仕込みをかいがいしくしている。次の料理を頼みたいが、声をかけづらい。たまたまこの時間だけなのか、テレビもラジオも流していないので、静けさがより一層声をかけづらくしているのかもしれない。
『ハンバーグ』
やっと、大好物のハンバーグを注文すると……なんという懐かしさ! 言ってしまえばレトルトなのだが、私はこのレトルトバーグも大好きなのだ。百均でよく見かけるこのハンバーグは、プレーン、キノコ、チーズの種類があり、沸いたお湯の中へビニールの梱包ごと入れて温めてから食べる。金のない(今もない)頃によくお世話になった思い出の一品だ。
肉汁がどうの……は置いて、ムチっとした食べ応えに甘いキノコソースがよく合う。私が食べていたものと違うところは、キャベツとキュウリが添えられているところだ。女将さんのちょっとした手間がうれしい。よし、愛想よくもう一杯酒を頼んでみよう。
「申し訳ないです~、ビールもう一本ください♪」
「……はい」
全ッ然、だめだな……こっちの愛想とかそんなのでは、この女将さんとお近づきになることは到底かなわないのかもしれない。他にいい手はないか、それとも一度出直すか……
「おいっす」
「あら、いらっしゃい」
突然、あの女将さんの声が2トーン上がった。一体どういうことかと声のした方をみると、お年を召した先輩がひとりで店に入ってきた。その先輩は、おそらく自分の特等席であろう端の席に座ると、慣れた口調で女将さんに注文をする。
「ニラ玉と煮魚……あと、ご飯半分」
「え、半分でいいの?」
「いやね、医者にご飯は食うなって言われてさ」
「しょうがないね、ははは」
あっ、いま女将さんが笑った……!? 私には目も合わせてくれなかったのに、先輩はいとも簡単に女将さんの笑顔をかっさらったのだ。こうなると、このカップルに私が入る余地など皆無である。残っているビールを注ぎつつ、もはや完全な〝空気〟として聞き手に徹するしかない。
「そんなに身体の具合が悪いのかい?」
「〇〇飲んだら、次の日に胃ガンになっちゃってね」
「あらいやだ、あたしもそれ飲んでたわよ」
2人合わせて160歳くらいか……まことしやかな健康談論が、否が応にも耳に入ってくる。マジかよ……〇〇なんて俺の親父も愛飲しているぞ、などと心の中で会話に反応していると、残りのビールは間もなく空になりそうだ。
「おっと、まずい。そろそろ時間だ」
女将さんと話しながらも、おかずと半ライスを平らげた先輩が店を出るようだ。千円札を差し出した先輩に、女将さんが言った。
「なんだい、どこか行くのかい?」
「おう、今からゴジラなんだ」
「そう、ゴジラかい。いってらっしゃい」
「じゃあまた来るよ」
ペラペラの入り口扉が、パタンと音を立てて閉まった。残ったのは、またしても静寂である。……私は残りのビールを飲み干し、今の会話を思い返した。
〝今からゴジラなんだ〟
……あぁ、ゴジラなのか。
〝ゴジラかい。いってらっしゃい〟
……そうか、ゴジラだから帰るのか──って、
〝え? 今、なんて言った……?〟
酒場珍耳袋 第一話 完
千曲食堂(ちくましょくどう)
住所: | 東京都練馬区豊玉北5-32 |
---|---|
TEL: | 03-3994-2612 |
営業時間: | 7:00~19:00(通し営業) |
定休日: | 無休 |