船堀「百味家」傘を片手に一寸一杯『雨酒場』の誘い
──雨の季節。
好きか嫌いかと訊けば、ほとんどの人は嫌いと答えるんじゃないだろうか。この時期は、天気予報を見る度に「まーた、雨かよ」とウンザリする日が続き、外に出るのでさえ億劫だ。しかし、雨の日にある酒場というのは、なんでしょうか、〝情緒〟というものが漂っているものでね。
呑兵衛が外を歩いていて、「降ってきやがった」と口にすればアラ不思議、酒場というのはなぜか都合よく目の前に現れる。傘を仕舞って暖簾を潜ると……家庭的で、どこか懐かしいような甘ったるい香りが鼻をくすぐる。外の湿った雨の匂いと対比して、その香りはなんとも心、落ち着かせるじゃありませんか。
例えば──
その日も『船堀』で酒場探しをしていると、突然の雨が襲った。なかなかの強雨に、今日はもう帰ろうと駅に向かって小走りしていると、やはり酒場は忽然と現れるのだ。
『百味家』
薄暗い空の下、店から漏れる煌々とした灯りが湿ったアスファルトに映る。幻想的とは言い過ぎだが、『雨酒場』ならではの情緒というものを感じのである。バタバタとビニール傘を打つ雨音が強くなり、〝早く入れ〟と催促しているようだ。靴とズボンの裾が雨で湿って気持ちが悪くなっていたので、わかりましたと傘を畳み、自動ドアの前に立った。
ウィ──ン……
「いらっしゃいませ」
おっと、素敵な色をした店内じゃないですか。ところどころに白色電球がぶら下がり、酒と尻でよく磨かれた木製のテーブルとイスを照らしている。その暖かみのある光景が、外の雨音と対比してどこか安心感を与えてくれる。ここは先輩たちに混ざり一寸一杯、雨宿りさせていただきましょうか……
おわっ!? なんちゅう巨大な《OHS》だ……! 肉、魚、焼きもの、揚げ物、刺身、サラダ……〝百味〟とは言ったもので、とんでもない数のオカズたちが並んでいる。店の入り口から奥の厨房まで何メートルも並び、とにかく私が今まで見てきたOHSの中では最長であることは間違いない。
「先に酎ハイだけ席にお願いします!」
自分の席に傘だけ置いて女将さんに酒を頼むと、辛抱たまらずOHSの吟味を始める。その様子を傍から見れば、子供がおもちゃ屋のショーケースにへばり付いているのと変わらないだろう。よーし……
〝ぼく、コレとコレとコレとコレにき~めたっ♪〟
『焼き鮭』
まずは、OHSメニューのレギュラーメンバーである焼き鮭だ。こいつの正しい食べ方は決まっていて、背肉の方をチビリと箸で崩しひと口食べる。そのあと酒を挿れて、今度は腹肉の方をチビリと箸で崩す。それを大根おろしと合わせて食べる──これを繰り返すのだ。脂も乗っていい感じ、すっかり靴とズボンの湿りのことなんて忘れている。これは一寸どころか、長居してしまいそうな予感がプンプンする。いやいや、あまりダラダラ飲らないように、雨が止んだら去ると決めておこう。
『つぶ貝刺し』
〝見つけたっ!〟と、この巨大なOHSから探し当てたときの嬉しさよ。その好物のつぶ貝は大ぶりで、見るからに食い応えがアリ。ズシリとした重さを箸に感じながら口に入れると、コリシコの旨味が楽し旨し。よしよし、ノッてきたぞ。どれ、雨の具合はと……まだまだ止む気配はないな。うん、しかたがねぇな、酎ハイをおかわりしよう。
『煮アナゴ』
こいつもOHSではよく見かける酒ドロボーのひとつだ。女将さんに言って温め直してもらい、ホカホカの状態で頂く。身はハラリと口の中で解け、甘さ控えめの汁と渾然一体と舌に沁み込む……ウマい。アナゴの淡泊で骨っぽい食べ味も堪らない。えーと、雨の具合は……そっか、まだ止んでいないかぁ。まだ飲めるぞ、うふふ。
『ハンバーグ』
私はバーグが死ぬほど大好きで、死ぬ前に食べたいのがバーグである。このバーグも女将さんに温めてもらい、ソワソワと席で待っていると、目の前にデミグラスソースのいい香り。ポテトと目玉焼きまで付いているパーフェクトセットの登場だ。
ぎゅっと引き締まったバーグを、辛抱堪らずガブリと食らいつく……ンまいッ!! こってりとしたデミグラスソースがブリッブリの肉にベストマッチ。噛む度に肉汁が溢れ、その風味が顔じゅうの穴から漏れる。なんだろうな、なんでこんなにバーグってもんはウマいんだろうか。
もう、完全に落ち着いてしまった。椅子から尻が離れる気がしない。ずーっと、チビチビと飲っていたい。いや、そうしようと心に決め、ふと店の外へと目をやった。
あれっ!? 雨、止んでるじゃねえか……。
いつの間にか、外の雨音は無くなっていた。代わりに、雨酒場目当ての客が席を埋めている。しかたがない、次の客に席を譲るか……まぁ、雨が止んだら去ると決めていたことだし、そろそろ出ますか。粛々と残りの酒を飲み干すと、OHSの方を見ないように会計を済ませるのである。
ウィ──ン……
「ありがとうございました」
店を出て空を見上げると、やはり雨は止んでいた。ただ、空はどんよりと鉛色の雲で覆いつくされ、またいつでも雨を降らせる様子が窺える。
「あーあ、また雨降らねーかな」
呑兵衛が阿保なことを言っていると解りつつも、また降るであろう雨に期待をしながら、駅ではなく次の雨酒場へと足が向いているのだった。
今年も、雨の季節が始まった。
どうですか、傘を片手に酒場めぐりなんていうのも。
百味家(ひゃくみや)
住所: | 東京都江戸川区船堀3-2-3 |
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TEL: | 03-3869-6610 |
営業時間: | 10:00~23:30 |
定休日: | 無休(年末年始、お盆期間を除く) |