葛西「千里」手がかりは「特盛500円定食」忘却の酒場を訪ねて
二十年前には想像もしていなかったことが当たり前となっていて、携帯電話やスマホがこんな流行るとは思ってもいなかったし、そこで使う便利なアプリひとつも、至極当然と生活の一部になっている。例えば、私は酒場ブロガーとして〝地図〟が絶対に不可欠な存在で、地図アプリの『Googleマップ』は大変重宝している。Googleマップは、平面地図だけではなく『ストリートビュー』モードで、駅周辺のリアルな雰囲気を確認することが出来るのだが、これをとにかく重宝している。過去に行った〝思い出せない場所〟があっても、「ここら辺だったような……」とストリートビューで軽く散策しようものなら、あっさりと見つかったりするのだ。
ただ、それでも〝思い出せない酒場〟というのがいくつかある。暇さえあればストリートビューを開いて探しているが、どうしても見つからない。そのひとつに〝葛西の食堂〟がある。
18歳の頃に地元の友人とはじめてバンドを組み、高校卒業後、そのバンドのボーカルと共に上京をした。私は西東京の田無、ボーカルは真逆の葛西に住んでいた。土曜日になると、私はギターを背負ってボーカルの家に行き、次の日に葛西駅にある食堂で飯を食って帰る、ということを一年間続けていた。一年も続けていたにもかかわらず、この食堂がどうしても思い出せなかったのだ。
店の名前など憶えていない。憶えているのは、
- 店に入ってすぐに二人掛けのテーブル
- 特盛の500円肉野菜定食
- 食後のコーヒーサービス
があったこと。記憶はこれだけだった。あとは、駅からそんなに離れていなかったような……。〝ボーカルに訊いてみれば〟と思うかもしれないが、もう何年も連絡を取っていないし、おそらく彼も覚えていないだろう。
諦めかけていたところで、最近になり、ボーカルが住んでいた家を偶然発見することができたのだ。さらにそこから「確か、こうやって駅に向かって歩いて……」と、ストリートビューを進めてみた。すると、遂に見覚えのある店の外観にたどり着いたのだ。
何か〝ピン〟とくるものがあった。これは、絶対に確認しなければならない……私は、居ても立っても居られず、気が付けば葛西行きの電車に飛び乗っていた──
『葛西駅』
うっわ……懐かし過ぎる!! 二十年ぶりに降り立つ、かつての青春の地を目の当たりにして、興奮というか動揺というか、ドキドキが止まらない。落ち着け……とにかく疑惑の店がある北口へ向かうのだ。
正直、駅周辺の雰囲気など覚えていない。Googleマップの経路を頼りに進む。
この通りに入って……
おっ……?
『千里』
あぁ……こんな感じだったような……。
店名こそピンと来ていないが、この間口にはやはり見覚えがあった。ただ、入ってみて違っていたら、これは結構なショックだ。そんな不安を抱えつつも、思い切って中へと入った。
「いらっしゃいませー」
おおっ、広いぞ! しかも私好みの造りじゃないか! 店内はかなり奥まで伸びており、その奥には広々とした座敷もあった。
でも、こんなに広いところだったかな……? にわかに不安が過る。……いや、待てよ。そうだ、『店に入ってすぐに二人掛けのテーブル』があるはずだが……
あった!! そうそう、こんな感じの二人掛けテーブルに、ボーカルと向き合って定食を食ってたんだよなぁ……いや、まだ確定するのは早い。そんな食堂ならいくらでもあるだろう。もっと詳しく確かめなければ。
そことは違うテーブル席に案内されて座る。座ったものの、内観が気になってしょうがない。……こんな内装だったかもなぁ。少しでも思い出せるものがあれば……ちょっと、ビールでも飲んで落ち着こう。
『瓶ビール』
思い出の場所だろうとなんだろうと、瓶ビールってのはどうしてこんなに食堂テーブルに映えるのでしょうか。
ムグ……ムグ……パァ──ッ!! ウマいっ!! 当時は18、19歳だったから、酒など飲めなかったのだと思うと歯がゆい。
続けて『特盛の500円肉野菜定食』の確認といきたいところだが……一旦、待とう。これで違ったら、即ゲームオーバーだからな。もしかしたら、定食すらやっていないかもしれない。どっちにしろ、せっかく出逢った酒場なので、まずは単品メニューでこの店自体を楽しもうじゃないか。
『酢豚』
揚げ豚、玉ねぎ、ニンジン、ピーマンをケチャップで軽く和えたあっさり味。いいですねぇ……酢豚色が強過ぎない、この家庭的な配色。当時の私たちからしたら〝高級品〟だっただろうに、そんなバンドキッズの彼らへ、このオジサンが奢ってあげられるものなら奢ってあげたい。
『肉野菜うま煮』
まず、ネーミングセンスの良さよ。このルックスで〝うま煮〟って言われたら、めちゃめちゃウマそうに見える。丼の中にぎっしりと旨煮られた肉野菜、それをトロツヤの餡がたっぷりと覆う。アッチアチとかなり熱いが、その熱の中から沁み出るジュワりとした旨味が堪らねぇのだ。
さて……いよいよだ。『特盛の500円肉野菜定食』を確認しようじゃないか。店の外観や二人掛けのテーブルはクリアとしよう。然りとて、これが〝特盛〟じゃなくても〝500円〟じゃなくても即アウト。まぁ、二十年も経っていれば物価も変わって、150円くらいは値上げしているかもしれない……そうなったら、もはや正解など永久に埋もれてしまう……ええい、当たって砕けろ!
「すいません!」
「はい、ご注文ですか?」
「あの、定食……ありますか?」
「定食ですか?」
ドクン……
ドクン……
「あちらの、ホワイトボードから選んでください」
そう言う女将さんの目線の先には……
あっ……
ごひゃくえ──んッ!!
ぐおっ……500円定食、本当にありやがったよ……今度こそ〝確定〟でいいだろう……いやいやいや、まだだ!! これが〝特盛〟じゃなければアウトなのだ。当時、なぜボーカルとその食堂に通っていたかというと、安さもそうだが食べ盛りの十代の胃袋でさえ、食べ終わった後は毎回「もう二度と食いに来ねぇ!」と、いい意味で後悔させるほどの量だったからだ。それに、肉野菜以外にもライスの量だってハンパじゃなく……
「お待たせしました~」
え……?
うわぁぁぁぁ、なんじゃこりゃ!! 特盛どころか〝爆盛〟じゃねぇか!!
『SS定食 肉ヤサイ炒め』
標高20㎝はあるであろう肉野菜のチョモランマ、ライスは見ただけで重みを感じるこちらも特盛。それに小鉢は二つ、たくあんと味噌汁まで付いて、これが500円だって……?
嗚呼……この衝撃は、むかし何度も味わったことがある──
「よし……食おうッ!!」
ベルトを緩め、気合を入れる。割り箸をパチリ、肉野菜の山にザックリと箸を挿れ、ライスへドン。飯ごと掬い上げて……ハフッ、ハフッ──うんめぇっ!! 肉と野菜の見事なマリアージュ。さらにそこへ、グイッ……グイッ……ビールをブチ込みマリアージュ。またまた肉野菜を掻っ込む……ハフッ、ハフッ……もっともっと……ハフッ、ハフッ──……全然減らねぇ!!
一体、どうなっていやがる。食べても食べても、肉野菜は減らない。増えているんじゃないか?……私の腹はどんどん限界に近づいていく。ただ、この感じがどうにも可笑しくて、腹は膨れるごとに、当時のことが鮮明に思い出される──
朝まで語り合った、熱い音楽論
昼代としての仕送りは、貰った次の日に機材へ変わっていた
はじめてオリジナル曲を作った時の興奮
本気で、プロを目指そうと決めた日……
二人合わせて定食代の千円しかないことは当たり前だったが、今のところ人生を振り返れば、この時が一番楽しかった気がする。合間に酎ハイを頼み、三十分以上かけてなんとか終わりが見えた。最後の空き皿に、箸がカラーンと落ちると、図らずも声が出た。
「もう二度と食いに来ねぇ!」
どこかで聞いたセリフである。でも、結局また来てしまうのだろう。最近は、大人らしくしっぽりと飲ることを意識していたが、そんなもん、全部吹っ飛んでしまった。腹がパンパンだ。
「コーヒー、お持ちしました」
とどめの『食後のコーヒーサービス』が、女将さんから渡された。コーヒーは普段あまり飲まなかったが、ここで最後に飲むコーヒーがやたらウマかったのは、当時も今も変わらない。
そう、ここは、
二十年前に通っていた、思い出の場所なのだ。
やっと、ひとつ見つけた……そして、いい店だった。
次は、ボーカルと来よう。その時は、二人で腹をパンパンにさせながら、また夢を語らうのだ。
千里(せんり)
住所: | 東京都江戸川区中葛西3-35-12 |
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TEL: | 03-3689-5811 |
営業時間: | 11:30~14:25×17:30~23:10 |
定休日: | 日曜・祝日 |