ある意味、私と酒を繋げるルーツだったかもしれない話
「オマエ、前は何のバイトだったんだ?」
「はい? えっと、〝小僧寿し〟でした」
「フーン、じゃあ女子大生もいたんじゃないか?」
「はい。ていうか、自分以外のバイトはみんな女子大生でしたよ」
忘れもしない、22歳の夏……私は新宿にある漫画喫茶(現在は閉業)の深夜バイトをやり始めた。夜の10時から朝の8時までの深夜勤務、初日は『K』という先輩と二人で仕事をすることになった。何から何まで初めての私に、Kは初対面にも関わらず敬語皆無で話しかけてきたのだ。
「それで、何人と付き合ったんだ?」
「えっ?」
当時のKは短い金髪でガタイがよく強面だった。しゃがれ声ではない真壁刀義を想像してもらえればいい。ただでさえ初めての深夜勤務で不安なのに、これからこのイカツイ男と働くのかと思うと多少……いや、かなり憂鬱だった。
「女だらけだったんだろ? 何人をモノにしたんだ?」
「いやいや! 何もなかったですよー」
バチ──ンッ!
その瞬間、私はKの強烈なビンタを喰らったのだ。
「えっ、えーっ、なんスか急に!?」
「オマエ、それでも男かよ……!」
意味が解らなかった。
彼曰く、そんな好環境に恵まれて何もしないなど男として考えられない、ということだった。うん、今振り返ってみても意味が解らない。
辞めよう。大至急、辞めよう。とんでもないバイトを選んでしまったようだ。私はその夜、このビンタ野郎に怯えながら初バイトを過ごしたのだった。
──それから二十年以上経ったある日、私はそのKと酒場ナビメンバーのイカと三人で、上野御徒町にある酒場で昼飲みにやってきた。
「俺、オマエにそんなことしたか?」
「いやー、あれはかなり衝撃だったよ」
「はははっ、なんちゅうヤツや!」
三人だけ揃って飲るのは、実に10年ぶり。今回の酒場は、御徒町で知る人ぞ知る名店『日吉屋』である。
一見して某・熱烈中華食堂系チェーン店と間違えそうだが、ここはとにかく安くてウマい本格的な中華酒場なのだ。酒場オタクのイカでさえ知らなかったみたいだが、私は何度も訪れているお気に入りの酒場で、なんならあまり教えたくないくらいだ。
いつもは混んでいるが、たまたま客はひとりもいない。貸し切り状態で、三人の酒場が始まった。
「ほな、酒ゴングしよかー」
「おいイカ、なんだその酒ゴングって」
「いいから、ゴングすればいいんだよKさん」
衝撃の初バイトから数日後、何だかんだでバイトを続けたのだが、そこでまたブッ飛んだ先輩と一緒になった。何を隠そう、その人物こそ酒場ナビのイカなのだ。いきなりビンタこそされなかったが、彼もとんでもない先輩だった。
「おっ、鳥刺しか。食おうぜ」
「Kさん待って。料理の〝寄り写真〟撮ってから」
「あ? なんなんだよ、寄り写真て」
「えーから、鳥刺しから手ぇ放せやK!」
当時のイカは現役のお笑い芸人で、発言や行動はかなり破天荒だった。そんな〝イカ先輩〟は深夜時間帯に入ると、必ず店のビールサーバーからビールを注いで一杯飲る。「それって、店長に怒られませんか?」などと言わせる隙は一切与えず、バイト前に買ってきた回転寿司の折り詰めをアテに本格的な晩酌が始まるのだ。それからは接客などほぼ皆無、晩酌ついでに接客(会計)をするだけなのだ。
「おほっ、この鳥レバ旨そう!」
「おいK、レバの背景に映るからどいてや」
「うるせぇな。それより、ウナギも食おうぜ」
Kと一緒のバイトのある夜、彼は持ってきた大きなビニール袋を見せつけ「腰抜かすモン、持ってきたぞ」と言った。何だろうと思いつつ、深夜時間……いや、〝酒盛り時間〟がやってきた。店の小さなキッチンにある冷蔵庫から例のビニール袋を取り出して広げると、そこにはまさかの〝皮付きマグロのブロック〟があった。サクで切り分けられたものではない、完全にブロック、それも1キロほどの巨大肉塊だ。午前中に築地へ行って買ってきたらしいのだが、それを店のモーニングサービスで出すサンドイッチ用の包丁でギコギコと切り分け、それをアテにビールで飲り始めた。それからバイトが休みだったイカ先輩も呼んで、一緒に酒盛りを始めた。念のために言っておくが、これは仕事中での話だ。
「来たぞウナギ。食おう」
「ちょっとKさん、寄り写真を撮ってからだって」
「だから、なんで撮るんだ?」
「何回言わせんねん、ウナギの皿を下ろせやK!」
イカ先輩に、生まれて初めて泥酔させられたことがある。二人でバイトの夜、いつものように深夜の宴をはじめていたのだが、この夜はビールだけではなくウイスキーまで持ち出していた。今でこそ酒浸りの私だが、当時はほとんど酒を飲むことはなく、深夜の宴の時も私は軽くビールを飲むくらいだった。そんな私にイカ先輩は度数40%の角瓶を、しかも氷ナシのグラスに並々と注いで私に飲ませたのだ。酒の味など全く知らなかった私は「甘くておいしいかも!」などと言ってグビグビあおり、いつしか気を失ったかと思うと、店のリクライニング席で強烈な頭痛と脱水症状で目覚めたのだ。生れて初めての二日酔いだった。イカ先輩の話によると、グラスを飲み干したあたりで私のボルテージは最高潮となり、イカ先輩が「牛になれ!」と命じて、そのまま「モー!」と叫びながら店の向かいにあったラーメン屋台に突撃したらしい。私はまったく記憶がないが、詳しい話はイカに訊いてみてほしい。
「おおっ、ウマそうな牛ハラミステーキ!」
「……これも寄り写真、撮るんだよな?」
「ちゃうでK。絵面がえーから、食うてるとこ撮んねんで」
「しらねーよ」
「おお……溶ける……うんめぇ!」
「ええな、もう一枚や」
「そういやオマエら……酒場ナントカってブログやってたな?」
「〝酒場ナビ〟やで。あ、Kも載せたるから食うてるとこ撮ったるわ」
「いや、撮るんじゃねーよ」
「うーん、下手やなぁ……」
「撮るんじゃねーよ。あと、下手ってなんだよ」
そんなKが数年前、まさかの結婚をした時にはイカと二人で戦慄した。一番結婚とは無縁であり、一番結婚してはならない男だったのだ。しかも〝授かり婚〟だ。一体どんな父親になるのか心配だったが、案外子煩悩でしっかり父親をやっているらしい。
「このメンチカツも、ボリューム感あってウマいな」
「そういや、俺んところ二人目の子供が……」
「うせやん、二人目おったん!?」
あのKが今や二児の父、しかもマイホームまで購入しているというから、人生どうなるか分からない。正直、ここに書いたKの話はかなりユルい方で、〝時効〟など関係なく現代のコンプライアンス的にまずい話ばかりだから、さらに分からないものだ。
結局、私は三年もその漫画喫茶で働くことになったが、そんな連中ばかりが働くようなところだ。それからほどなくして店は潰れた。一時的に散り散りになったが、こうして深夜ではないものの、今度は昼飲みをしているのが不思議というか奇妙というか……。ただ思うのは、あの時私が仕事中に泥酔をしていなければ、今この酒場に集まっていなかったのかもしれない。
「いやーん、ウニ刺やーん!」
「この店に来たら、必ずウニ刺を頼むんだよね」
「俺もウニ大好物なんだ。よし、食お……」
「よし撮れたわ。食うてええでK」
「……何なんだオマエら。酒場ナビって何なんだよ」
「まぁまぁ、もう一杯頼みましょうか」
10年ぶりに、漫画喫茶のバイトの夜は更けていく──
日吉屋(ひよしや)
住所: | 東京都台東区上野3-28-6 |
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TEL: | 03-3834-5988 |
営業時間: | 12:00~02:00 |
定休日: | 無 |