成増「肉の宝屋」あこがれの酒場回しマスター
軽妙洒脱に『酒場回し』をする人に、あこがれている。
酒場回しとは、いわゆる〝場回し〟の酒場版で、客、店の大将に女将さんを含む、その酒場にいるすべての人を巻き込んで、場を切り回すことだ。
はじめて入った店の戸を開けると、そこには五、六人ほどの客と女将さん。酒場回しをする中心人物の客が、こちらを一瞥して、またすぐに酒場を回し始める。そことは少し離れた席に座り、女将さんが注文を取りに来る。瓶ビールで独酌、グループから聴こえてくる会話を気にしつつ、ホワイトボードにあったおすすめの『刺身三点盛』を女将さんに告げると、
「お兄ちゃん、今日のアジおいしいよ」
女将さんではなく、〝酒場回しマスター〟が、突然話しかけてくるのだ。「あっ、どうも。じゃあ、アジも入れてください」と返せば、そこから「ここ、はじめて?」なんて会話が自然と始まる。刺身三点盛が届くころには、すっかりと酒場回しマスターの術中にはまり、気が付けばグラスは合わせずとも、盃をちょいと上げて空乾杯。遠からず近からず、この絶妙な距離感を保ちつつ飲らせる話術、酒場回しマスターとしての技術に、しばし陶酔するのだ。
最近も、すばらしい技術の酒場回しマスターに出逢いましてね──
東京の端っこのひとつ、『成増』へ数年ぶりに訪れた。『成増マーケット』や食堂に角打ちなど、成増は昼から飲れるところもあり、私の中では〝飲み屋の町〟として重宝している。そんな飲み屋の町に、前から行きたかった酒場があった。
『肉の宝屋』
一見、精肉店のような名前だが、歴とした酒場……いや、暖簾を見るからにはとんかつ屋らしい。建物自体はレンガ調でだいぶ綺麗だが、店先には孫のものと思しき三輪バイクと、店内からそこはかとなく醸し出される雰囲気は、ただのとんかつ屋だとは思えない。溢れ出す大衆酒場然としたオーラ、これは暖簾を引かない手はない。
カラ、カラ、カラ……
──サッシ引き戸の、いい音。
「いらっしゃいませ!」
元気のいい女将さんと大将の声に迎えられ、中へと入ると、
おぉっ、こりゃタマゲタ!! とんかつの様にこんがりと褪せた壁と天井、テカテカ畳張りの小上がり、壁のブラックボードには白ペンで手書きのメニュー、趣たっぷりの照明と調度品……店内は予想通り……いや、予想以上の渋みを醸し出していた。
店内のカウンターには、先客が数人。私もカウンターにと迷ったが、小上がりに酒座を決めると、まずは駆けつけレモンサワーを頼んだ。
ごくん……ごくん……ごくん──渋い店内の様子さえアテとなり、ウマいですねぇ。さぁて、あのブラックボードのメニューには、何がありますかねぇ……
えっ?
『鶏ソーテ』
『揚ギ・ヨザ』
『とりチュリ・プ』
どういう、ことだ……? 暗号の様なメニューが、否が応でも目につく。あぁ……なるほど、ソーテは〝ソテー〟、ギ・ヨザは〝ギョウザ〟、チュリ・プは〝チューリップ〟ってことか。昔、恵比寿の『こづち』でチャーハンを『チャハーン』とメニューに書いていたことがあったが、それと同じだ。誤表記ではなく〝素で間違っているタイプ〟だ。
それにしたって『ベコンエーク』は、なかなかのもの。
「ホタテフラーイ、ください」
「はーい、ホタテフライね」
さり気なく間違って言ってみたが、さすがは女将さん。訊き返すこともなく料理は通された。
『ホタテフライ』
キャベツの絨毯に大ぶりのホタテがトントントン、見るからにウマそうだ。ソースをトトォリ、割り箸をパチリ、ザスッという音を上げて持ち上げて、いただきまぁす──ウンまッ!!
ブリンブリンのホタテが丁度良く揚がって、ひとサクリする度にホタテの甘さが広がる。ふむ、こりゃ衣がウメぇんだなぁ。ここの大将、相当な揚げ技術があるとお見受けする。
『豚肉豆腐チゲ鍋』
こいつぁ、ボリュームたっぷりだ! 鍋いっぱいに盛られた、豚肉、豆腐、ネギ。味噌で煮込んだシンプル仕立てだが、豚肉が特においしいからか、その旨味が鍋全体にあますことなく沁み渡っている。ライスと合うだろうなぁ……などと思っていると、
「その黒いの、ゴミじゃなくて〝ゴマ〟だからね」
厨房の奥にいた、大将が出てきた。大将が手に持っているのはゴマの入った小鉢で、鍋に入っている無数の黒粒は、ゴミではなくゴマだということを熱心に説明をしてくれた。そりゃそうだろうが、メニュー誤表記の件もあるだけに、若干の安心感は否めない。
「ははは、そんなの分かるでしょ大将」
すると今度は、カウンターで飲っていた男性客の一人が、笑いながら大将に突っ込んだ。周りの客らは、それを見て笑っている。私も一緒に笑っていると、新しく子供づれの親子三人が入ってきた。入ってくるなり、さっきの男性は「おっ、元気かぁ?」と、子供に話しかけていた。子供が照れながら何かを言うと、男性は高笑いをして、場が沸いた。これは、もしや──
〝酒場回しマスターか……!?〟
そのあと、すぐに一人の客がやって来たが、同じように場を切り回す男性。間違いない、この方は酒場回しマスターだ。ちょっとした、ときめきを感じながら、その切り回し方を見ていると、次の料理が到着した。
『上馬刺し』
ウマウマそうっ!! サシの入り具合が丁度いい具合。少ぉし凍っているが、これがいいんです。
こいつを一枚、生姜をたっぷり溶かした醤油に漬け込む。
三十秒間それに浸し、馬刺しの表面がウルウルとしてきたところを、食らいつく──ハイ、馬いッ!! 溶けかかった馬刺しがヒンヤリと、ゆっくりと舌の上で蕩けていく……と同時に、馬の精悍な味わいがウマいのなんのって。
この馬、酒場GⅠだったら間違いなく優勝だ。
カラ、カラ、カラ……
おっと、また客か……うっ!?
馬刺しを愉しんでいると、さらに客がひとり入ってきた。が……『特殊先輩』とまでは言わないが、その風貌からして、かなりの〝先輩〟である。よろよろと中へ入ってくると、酒場回しマスターの横に座り、女将さんに言った。
「ウーロンハイくだしゃい」
女将さんからウーロンハイを受け取ると、ゆっくりとした動きで独酌を始めた。しばらく様子を伺っていたが、ウーロンハイのみをチビチビと飲るだけで、他に料理を頼む素振りがない。あまり、金を持っていないのだろうか……
正直なところ、私の隣に座れた日には早々に店を出てしまうだろう。さっきまであんなに盛り上がっていた周りの客も、ちょっと大人しくなっている。しかし、ここにきて酒場回しマスターだ。この場を切り回すべく、先輩に向かって笑顔で言った。
「から揚げ、一個あげるよ」
きっと、私を含めた外野は(おぉっ!!)と心の声を上げたに違いない……いや、すばらしいことですよ。先輩はモジモジと恐縮しながら、女将さんから小皿をもらい、そこへポンとから揚げを置いてもらうと、そのから揚げを大事そうに頬張った。
「先輩、よかったじゃない」
「ありがたいねぇ」
「ははは。もう一個食べるかい?」
「いやぁ、もう、だいじょうぶだよぉ」
そんなのをきっかけに先輩を含めたこの場は、にわかに、そしてまた廻り始めたのである。もちろん、その中心には酒場回しマスターがいるのである。
〝いつか、あんな風に酒場を切り回してみたい〟
マスターの裁量に、傍から羨望の目を向ける。すごいなぁと、口元にゴミを……いや、ゴマを付けながら、私もウローンハイを女将さんにお願いするのだった。
肉の宝屋(にくのたからや)
住所: | 東京都板橋区赤塚3-38-8 |
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TEL: | 03-3977-4429 |
営業時間: | [火~土]11:30〜14:30×17:00〜22:00 |
定休日: | 日、月 |